エクラヴワには一体、城がいくつ存在するのだろう。……先ほど乗っていたものとは別の小型飛翔船の窓から、地上に広がる圧倒的な風景を目にしながら、エマは呆然と思いを巡らせた。
大王は世界中から集めた富と技術を駆使して無数の邸宅を建設し、貴族や役人ひとりひとりにそれを下賜しているのだという。王子であるレオナールには特に豪壮な城がいくつも与えられており、今まさにそのうちのひとつへ向かっているのだと告げられた。
やがて、その邸宅に到着した。……マリプレーシュ侯爵の城など比べ物にならないのではないかと思わせるほどの壮麗な建築物が、そこに聳え立っていた。
「ま、適当にその辺に座っといてくれよ」
レオナールはそう言い残すと、緊張する三人を置いて姿を消してしまった。……適当にと言われても、案内された広間だけでも広大すぎて一体どこに座るべきか判断がつかず、三人はただ立ち尽くすばかりだった。
「お手洗いに立ったら、絶対に戻って来られない……」
リュックは相変わらず不安げな表情を浮かべ、震える声でそう呟いた。そこへ再び誰かが入室する気配がして、彼は驚いて小さく飛び上がる。……穏やかな雰囲気の初老の召使いだと分かり、胸をなで下ろした時に、背後で姉が笑いを堪えているのに気づいた。
「私は執事のニコルと申します。若様がお支度の間、どうぞごゆっくりおくつろぎください、お客様」
彼は三人を複数ある応接セットのうち中央のものへ案内し、見たこともないような高貴な器に注がれた紅茶を運んできた。手が滑ってそれを落としでもしたら大変だと、かえって手を震わせる姉弟はもちろんのこと、普段は感情を表に出さないシーマでさえ、いつもより緊張しているのが見て取れるほどだ。……彼は厳しい戦いの現場には慣れているのだろうが、……彼は過酷な戦場には慣れ親しんでいるのだろうが、このような歓待の場は、むしろ不得手なのかもしれない。
「うわあ、こんないい香りのお茶初めて……!」
エマがカップに顔を寄せ、思わず感嘆の声を上げていると、再び扉が叩かれ、先ほどのニコルと同年代の女性召使いに伴われた、気品漂う落ち着いた緑色のドレスをまとった女性が姿を現した。
「ようこそいらっしゃいました。レオナールのお客様がいらっしゃるなんて、珍しいこと」
温和な笑みを浮かべた、エマたちの母親世代の女性は、召使いに茶菓子を配膳させてから、戸惑う三人に向けて自己紹介を始めた。
「私はレオナールの母、リュシエンヌと申します。こちらは邸のお世話係のクロエよ」
艶やかな栗色の髪と、同じ色の活発に動くつぶらな瞳。誰が見てもレオナールは母親似だと感じるに違いない。……それはさておき、その名は確かに、エクラヴワ大王の妃のひとりとして耳にしたことがある。エマとリュックはますます身を固くしてカップを持つ手をさらに震わせ、シーマは何かの罠ではないかと警戒し始めたところへ、レオナールが戻ってきて豪快な笑い声を上げた。
「はっはっは、何だよおめえら。ホント、そんなガチガチになんなくていいんだって。ここにはエクラヴワ本城の威張り散らした役人なんかいねえんだからよ」
あまり邪魔をしては悪いわね、とリュシエンヌが退室すると、三人はようやく少し緊張を解くことができた。レオナールもひとつのソファに腰を下ろし、話し始める。
「ここはオレとお袋と、ちょっと身の回りの世話してくれるヤツらが住むには、広すぎてよ……ちょうど持て余してたトコなんだよな」
「つまり?」
シーマが言葉の裏に潜む、彼の真意を探ろうとする。
「いいだろ?ここ。今じゃオヤジの目もほとんど届かねえし……『正義の味方軍』の本拠地としてはよ。まあ、あと三つ……四つかな?ほとんど使ってねえ邸があるから、そっちで活動してもいいし」
レオナールは笑って紅茶を一口飲むと、背もたれに寄りかかって腕を組む。
「軍の名前、何にすっかなあ。カッコいいやつがいいよな……あ、肝心なコト聞くの忘れた。おめえら、結局どうすんだ?」
「ええ、それなんだけど」エマが最高級の紅茶を恐る恐る口に運び、そのカップをまた慎重に置きながら、答える。「私達も、その軍に協力させてもらうことにするわ。どうせ私たち、行く場所も分からないし……ひとりやふたりじゃ、何もできないから」
「協力することを前提に、ここへ連れてきたんだろう?」
シーマがエマの言葉に付け加えた。
「へっ。ばれたか」レオナールは立ち上がる。「じゃ晴れて、帝国にも大王国にも属さねえ中立軍!結成だ!」
彼は意気揚々と、拳を卓上にかざした。……エマとリュックは呆然とそれを眺め、シーマは冷ややかな目でそれを見つめる。
「……何だ、それは」
「え?……こりゃ、あの……団結の印だよ。みんなで手を重ねて、エイエイオーって」
「……くだらん」
冷淡すぎるシーマの反応に、レオナールはがっくりと肩を落としたが……目の前で喜劇が繰り広げられいるかのように、エマとリュックは腹を抱えて笑い出した。
「よし、そうと決めたら、オレのダチも紹介しねえとな。首脳部ってヤツが四人じゃ幾ら何でも太刀打ちできねえからな」
落ち着きのないことに、レオナールは三人がひと息つく間もなく、再び移動を促した。
エクラヴワ城下町は大王の膝元であり、役人や軍人など政府関係者の割合も高いため、厳重な治安維持がなされ、かつてのマリプレーシュなど他の属国の街に比べれば、庶民たちもある程度の自由を享受できていた。とはいえ帝国が反旗を翻した今、その“何事も起こっていない”かのような穏やかさには、どこか不自然さが漂う。
レオナールが慣れた仕草で、馴染みの酒場の自由扉を押し開けると、がっしりとした体躯の主人が満面の笑みを浮かべて手を挙げた。
「レオ様、随分とご無沙汰じゃないか。いつものでオッケーか?」
「おう頼むぜ。それと今日は新顔を連れてきたんだ。良くしてやってくれよな」
肩を叩かれたシーマはその言葉を受け入れるというよりは無視するかのように、常連のごとく自然に椅子のひとつに腰を下ろした。……そこに陣取っていた癖の強い男たちが、それが気に入らないというように彼を睨むが、何も言ってこないのはレオナールの威光のおかげだろう。
エマと、相変わらず極度に緊張しているリュックは、入口で躊躇していたが、レオナールに半ば強引にシーマと同じテーブルへ引っ張られていった。するとひとりの気の強そうな黒髪の少女が大股で近づいてきて、そこに恐る恐る座ったエマを睨みつける。
「ちょっと何、この芋っぽい娘。あんたみたいなのが来る場所じゃないんだよ」
「やめろよアナ。オレの客だぜ」
レオナールはその少女の肩を押して三人のテーブルから遠ざけると、自身は酒場の中央の卓に着いた。そこには既に、髪を派手な金色と桃色に染め上げた若者が足をテーブルに乗せた状態で座っており、先ほどの少女に威圧されて目を丸くしていたエマとリュックはさらに身を強張らせる。だがレオナールはその若者の肩に気さくに腕を回した。
「こいつはオレの親友中の親友、ジャンだ。ジャン、こいつらはオレがマリプレーシュで捕まえてきた連中だ」
「おう。よろしくな、色男くんどもよ」
ジャンは満面の笑みを浮かべたが、シーマはいつも通り聞いているのかいないのかと分からないといった態度で、エマとリュックは依然として怯えた様子で軽く頭を下げるだけだった。拍子抜けしたジャンを見て、今度はレオナールが笑い声を上げた。
「まあ、そのうちお互い慣れっから。ジャンはこう見えて偉え役人の息子なんだぜ。頼りになるイイ奴だから安心しろよ」
……どうやら、この店に既に集まっていたその他十人ほどの、いかつい面構えの若者たちも、全てレオナールの仲間のようだ。
「みんなオレの留守中も無事みてえで何よりだぜ。でもよ、なあフランク……」
彼は木の椅子の片側の脚だけを浮かせて隣のテーブルへ寄り、そこで静かに酒を嗜んでいた様子の、長い前髪に顔の上半分が隠れた寡黙そうな青年に声をかけた。
「ここも別にいつもと同じだし、街も混乱してねえみてえだけど……ホントに大丈夫なのか?」
「ああ……」フランクという青年は彼の方に顔だけを向けたが、相変わらず目元は覆われたままだ。「特に気にすんなって言われてる。騒ぐな、っていう方が近いかもな」
「レオは飛び出してっちまったから知らねえんだろうけどよ」ジャンが横から割り込んだ。「あの放送の後、やっぱ皆、動揺してたぜ。だってお前の親父があんなよ……」
彼はそこで一旦言葉を切り、慎重に酒場内を見回した。……王子御用達のこの店に、市民を無闇に取り締まる監視兵は配置されていないはずだ。
「……ありゃ、おれたち一般市民の、大王様のイメージとはまるで違げえからな。何つうか……」
「ああ、オヤジは市民にゃ威張りくさったところしか見せてねえからな」
レオナールが淡々とそう言うと、フランクはジャンの話の続きを受け継ごうと「だから……」と口を開きかけたが、彼とレオナールの間に大胆な衣装で豊満な胸元を強調する、派手な金髪の少女が割り込んできた。
「つまり脅されちゃってるのよ、あたしたち市民はァ。そんなことよりレオ、向こうの部屋で楽しまない?」
「うるせえよナディア。今から大事な話すんだよ」
レオナールが椅子を元の位置に戻し、まとわりつこうとする彼女を軽く押しのけるのを、テーブルの向こう側からあの活発そうなアナという少女が苛立たしげに見つめている。フランクもまた小さく溜息をついてまた酒にひと口を付けた。……その彼と同じ卓に、この場の雰囲気にはやや不釣り合いな素朴な印象の少年が座って本を読んでおり、リュックは自分と同じ年の頃ということもあって少なからず気になった。
「……ならば結局、本国も属国も大差ないということだな。民衆は真実から遠ざけられ、それを知ろうとする者は粛清される」
突如として、シーマがそう呟いた。レオナールは今度は彼の方に椅子と杯を持って近づく。
「だから、やっぱり必要なモンは中立軍だ。ここにいるみんなにはそれに協力してもらおうと思ってんだ。もちろん、ポーレジオンに連れてった兵士たちも賛同してくれてる。あとはどんどん活動広げて、雪だるま式にでっかくしてく。そうすりゃいずれオヤジにも、あのグランフェルテ帝国軍にも立ち向かってモノが言えるようになるって算段だ」
そんなに簡単に事が進むのだろうか。シーマは疑念を抱かざるを得なかったが、何も行動を起こさなければ剣の手掛かりも掴めまい。仕方なさそうに栗色の瞳を見返した彼に、レオナールは得意げな笑みを浮かべて親指を立てて見せた。
中立軍の名前は『アクティリオン』――行動する獅子。レオナールは自分の名前に因んだ言葉を織り込み、意気込みだけは高まる中でそれらしい体裁を整え、仲間たちを邸に招集していた。
しかし、単に人数を増やすだけでは大王や帝国の動向が不明な以上、具体的な行動に移しようがない。ジャンたちが街中を奔走して情報収集に努めてくれていたが、あの黒装束の謎の人物についてはおろか、大王国軍の動静さえも掴めずにいた。
「まさか予告なしに攻撃してくるほど無謀じゃねえよなあ、アイツも……」
レオナールは大きな窓枠に両手をつき、遥か彼方の空を見上げるようにして、そう独り言を漏らす。
……敵対する立場となってしまった今も、グランフェルテ皇帝への情は断ち切れずにいた。以前から交わしていた会話の雰囲気は、よそよそしくはあれど敵意に満ちたものではなかったはずだ。だが、あれほど豹変した姿を目の当たりにすると、どこまでが真実だったのか、判然としなくなる。
「新聞も、まるで帝国の反乱などなかったかのような記事ばかりです……」
魔法の修行中のリュックは旅の道中で見識を広めようと、毎日数種類の新聞を城下町で買い込んできて、隅から隅まで熟読していた。その傍らでは、あの酒場で静かに読書に耽っていた少年……ポールがそれを覗き込んでいる。彼はフランクの弟で、極めて物静かな性格だが、一般市民では珍しく竜を操る特殊な才能を持っていた。リュックとはすぐに打ち解けたようで、互いの知識を共有し合うなどしている。
一方エマは、数少ない女性メンバーであるアナやナディアに話しかける勇気が持てず、少なからず居心地の悪さを感じていた。やむを得ず、彼女は弟のもとへと足を向けた。
「結局、エクラヴワにいても何も分からないわね。マリプレーシュよりは平和だけど、ちょっと落ち着かないし……」
すると、レオナールのいる隣の窓際で腕を組んでいたシーマが、突如として立ち上がった。
「何が『行動する獅子』だ。看板倒れも甚だしい。独りで行動した方がよほど効率的だ」
彼はそう言い放つと、二階から邸の玄関広間まで降り、本当に扉から出ていこうとした。エマとリュックはついて追従すべきか迷い、レオナールは階段を駆け下りて彼を抱え込むように引き止めた。
「焦んな、焦んな!……確かに、まだ何も行動なんてできてねえけど……そうだ!」
エクラヴワに頼れないなら、他を当たるしかない。レオナールはある存在を思い浮かべた。
「オレのお袋、隣のミリエランスの王女だったんだよ。お袋のアニキ、オジさんなら何か知ってっかもしれねえ」
背を向けていたシーマがようやく関心を示し、彼の方を振り返る。ところが、エマとリュックはその国名を聞いてまたも身震いを始めた。
「ミ、ミ、ミリエランスって、またすっごく大きな国じゃ……」
「おう、だからよ、後ろについてくれりゃ心強えだろ?」
レオナールは一度は白い歯を見せて笑ったが、すぐに何か気づいたように眉をひそめて右上を仰いだ。
「あー……でも、オレすっげえ小さい時にしか、オジさんに会ったことねえんだよな。いきなりそんなこと言いに行っても、引かれるかもしんねえしな。一回お袋通すか」
そう言ってリュシエンヌの部屋へ向かっていく彼の背中を、しばし三人は呆然と見つめていた。……やがてシーマが首を横に振りながら呟く。
「あんな場当たり的な方法で物事が進むとは思えない。だが……」
もし本当にミリエランス王を味方につけることができれば、その力はエクラヴワには及ばずともグランフェルテ程度になら瞬く間に凌駕できるはずだ。シーマの『目的』への道のりも一気に縮まるだろう。
「ね、ねえシーマ……ひとりで行ったりしないわよね?ここまで来ちゃって、私たち……」
エマが駆け寄り、不安げに彼を見上げる。シーマはそれを一瞥し、、邸の玄関への足取りを止めたものの、レオナールとは異なる方向へ歩き出す。
「俺はお前たちの保護者じゃない。マリプレーシュなら隣国だ、どうにかして帰れるだろう」
その言葉に、エマは返す言葉を失い、ただ廊下の奥へ消えていく彼の後ろ姿を見つめることしかできなかった。……アルテュールの手がかりを掴みたいと意地になってここまで来たつもりだったが、本当は、ただ彼の傍に付いていたかっただけなのかもしれない。そんな自分の弱さを突きつけられた気がした。
「姉さん」リュックが寄り添い、今度は先ほどの彼女と同じように、エマの表情をおずおずと窺った。「……もし……シーマさんが、レオナールさんと別行動を取ると言ったら、どうするつもりですか……?」
「……」
エマがすぐに答えられずにいると、次に弟の口からは意外な言葉が飛び出した。
「あの、僕は……シーマさんが去っていったとしても、ここに残って挑戦してみたいんです」
「……えっ!?」
思わず甲高い声を出してしまった姉に……リュックは照れくささを感じたのだろうか、家にいた頃より随分と伸びて後ろでひとつに束ねるようになった金茶色の髪を、指先で掻きながら俯いた。
「……今まで、ずっと逃げてきたから。魔術を習っていても、マリプレーシュにいても、宮廷に仕えるような立派な魔術師にはなれなかったと思うから……そのお城も、帝国に奪われちゃいましたし……」
どこへ行っても相変わらずに情けないい姿を晒していると思えた弟は、このひと月に強制的に様々な経験をさせられて、心の内で何かを変化させていったのかもしれない。あのポールという同い年の少年も大きな影響を与えているのだろう。
「……そうね、ここまで来ちゃったんだもの。私も、もう少し頑張ってみようかな」
エマは丸い瞳に決意の色を宿し、同じ形をしたリュックの目を見返した。姉弟は今一度頷き合うと、仲間たちの集まる二階への階段を上っていった。