【I-010】不穏な海の街

 翌日の朝早く、白亜の船体を持つ飛翔船は、再び内海を越えるべく西の空へと舞い上がっていた。国でゆっくりと時を過ごしていては、期日に間に合わなくなってしまう。自らが定めた計画とはいえ、あまりにも余裕のない計画だと、ヴィクトールは溜め息をこぼした。

 「宣告から半月も悠々自適に構えていられるんだから、いいなあ。大王と手下の皆様方は」

 彫りの深い瞼を眠気に滲ませながら擦ると、彼は司令室の椅子に身を沈め、紅蓮の長髪をかき上げながら欠伸交じりに伸びをした。

 「ゆうべも忙しかったようだな、お前は。……色々と」

 隣に控えるアルベールが、含みのある皮肉を込めて低い声で呟く。

 「あっちが勝手に上がり込んで来たんだ。別に抱きたくもないのに」

 凱旋の夜だというのに、後味の悪いことだ。そんな結末を予感していながら、ロジーヌの訪問を甘んじて受け入れてしまったのは、その直前の……今もなお記憶に焼き付いて離れまいとする美しい銀の残像を、必死に脳裏から追い払おうとしていたためかもしれない。

 「………随分と速いものだな、最新鋭の飛翔船というのは。四、五日ほどで現地に到着する予定なんだろ?」

 半分しか真紅の瞳を開かぬまま、ヴィクトールは言う。

 「あっちに通わされてた頃は十日以上かかってた。奴ら、けちをして随分と旧型の船を寄越してたな」

 その言葉にはアルベールも深く頷き、感嘆の息を漏らした。

 「確かに驚くべき速さだ。このままでは、飛竜の存在意義すら危ぶまれるかもしれないな」

 「そうか?俺は竜が不要だとは思わないな。こんなでかい船で散歩に抜け出したら、すぐアルに見つかって小言を言われるからな」

 相変わらずの若き主君の戯言に、アルベールは呆れたように小さく息をつく。だが、次の瞬間には部屋の扉の方を気にかけるように、ちらりと視線を向けた。

 「……我々は度重なるエクラヴワへの往来で、この空の旅にも随分と慣れ親しんだが……彼女は初めての経験だろう。大丈夫だろうか?」

 「何だ、今さら」ヴィクトールは立ち上がると、苛立ちを隠さずにアルベールを睨みつけた。「お前が連れて来たんだろ。あれだけ言ったのに、俺が忙しくしてる間に黙って船に乗せやがって」

 「だが……」アルベールは居心地の悪そうな表情を浮かべ、きっちりと整えられた金髪を少し掻いた。「彼女はこのところ、ひどく孤独を訴えていただろう。我々もゆっくり構ってやれてはいなかったし、側近だったウィンバーグまでもが……」

 そこでさらに気まずく感じたのか、彼は言葉を切った。ヴィクトールはその様子に業を煮やし、騎士の姿からぷいと顔を背ける。

 「……着いたら起こせ、寝てくる」

 そう告げて、紅蓮の皇帝は護衛の騎士たちが恭しく開いた分厚い扉の向こうへと、颯爽と姿を消したのだった。

 帝国の宣言した、マリプレーシュの攻撃から半月後。そのほぼ期日通りに、シーマとオリヴィエ姉弟はポーレジオン城下町の港に到着した。

 当然のことながら、船券など買える状況ではなく、シーマの言う『裏の手段』で海を渡ることになった。……恐ろしい目に何度も遭いながら、違法船を捕まえ、命がけでここまでたどり着いたので、エマとリュックは完全に憔悴しきっていた。

 「まだ何も起こっていないようだな。あの王子とやらの言う通りに動くのは気に食わないが、とにかく情報を集めるか」

 いつもと何ら変わり無い様子のシーマに、エマたち姉弟は呆れと憤りを隠せなかった。彼自身はこんな危険な旅にも慣れているのだろうが、こちらの身も少しは案じてくれてもいいはずだ。胸の内は不満でいっぱいだったが、彼に同行すると決めたのは自分たちだし、何かを問い詰める気力も残されていない。

 そんな状態だったので、エマとリュックは気づくはずもなかったのだが……この街の不穏な空気を、シーマは敏感に感じ取っていた。用心棒稼業で各地を渡り歩いてきた彼にとって、マリプレーシュをはじめとするエクラヴワ領の街で、民が支配下の監視の下で窮屈に暮らしている様子を目にするのは珍しいことではなかった。だが、ここポーレジオンは、その様相があまりにも際立っているのだ。

 早くどこか目立たない場所へ移動した方がいいかもしれない……そう考え始めた矢先、桟橋の脇から一人の兵士らしき男が彼らに近づいてくるのが見えた。

 「待て、そこの連中。今降りてきた船はどこから出港したものだ?」

 綱渡りのような航海を終え、ぐったりと肩を落として歩いていたエマとリュックは、再び恐怖と緊張に身体を硬直させる。シーマがどのように切り抜けるべきかと思案していると、さらに二、三人の兵士が集まってきた。

 「怪しい者どもだ。見れば貴様、剣を所持しているな。帯刀許可証を出せ!」

 「ないのか?入国時に許可が出ていなければ、剣は提げられないはずだ!」

 シーマが何も言う間もなく、兵士らしき者たちは威圧的な口調で三人に詰め寄ってくる。気を失いそうなリュックの目の前で、ついにシーマの手に乱暴に縄がかけられようとしていた、その時……横合いから、ふと兵士たちとは異なる男の冷静な声が響いた。

 「待っていただきたい。この方々は我が令嬢のお客人だ。我々が代理で入国手続きを済ませておいたところだ」

 そう告げて三人と兵士たちの間に割って入り、何かの書類を差し出したのは、高貴な装いの背の高い、シーマたちには見覚えのない人物だった。兵士の一人は疑わしげな表情でそれを受け取ると、渋々といった様子で縄を解き、謝罪の言葉も発することなく持ち場へと戻っていった。

 三人が呆然と男性の方を見やると、彼はもう背中を向けていて、そのかわりに一人の若い女性が心配そうに近寄ってきた。

 「大丈夫?……ここでは話しにくいから、店に入りましょう」

 小さな宝石を散りばめた絹の頭巾の合間から覗く、気品あふれる中にも優しげな雰囲気を湛えた彼女は、先ほどの男性を含む数人の護衛らしき人物を引き連れている。この女性の正体にシーマはまだ見当がつかなかったが……エマたちも頼るように彼を見上げていた。この謎の女性が何者であれ、見知らぬ街でいきなり頼る術もなく動くよりは、従った方が賢明だろう。

 彼らは女性に導かれるまま、一件の高級食堂へ入った。異国の、さらに今まで縁のなかったような敷居の高い雰囲気に、エマとリュックは再び身を竦ませていたが……半個室に通されると、謎の女性は彼女たちを気遣うように先に座るよう促した。

 「突然声をかけてごめんなさいね。驚いたでしょう?」

 女性は三人の向かい側に、護衛たちは外側を囲むように席についた。彼女が頭巾を取ると、深い栗色の長い巻き髪と、淡い小麦に染まった艶やかな肌が印象的な美貌が露わになった。

 「……でも、あのままでは危なかったから……あなたたち、この国に入ったばかりよね?」

 水が運ばれてくると、彼女はエマたちに先に勧める。姉弟は緊張する手でその繊細なグラスを掴み、一口潤すと、少し心の重荷が下りた気がした。

 「あの……あなたは?」

 エマが恐る恐る尋ねると、女性は温かく微笑み、女性は優しく微笑み、小声でエマらに少し顔を寄せるようにして答えた。

 「私もよそ者なの。……本当はこんな事してはいけないんだけど、あなたたちが尋問されているのを見て、どうしても……」

 ……と、突然辺りが殺伐とした空気に包まれる。店の雰囲気に似合わず、奥の席で何か諍いが始まったらしい。ここへ来るまでの船の中でも、この街へ着いてからも次々と重なる重圧は、姉弟の体を何度も強張らせる。

 「……もう嫌だよ、姉さん……今から帰れないの……」

 リュックが涙目で弱音を吐く。……しかし、今回も彼らに災難が及ぶことはなかった。騒ぎの中には既に兵士がいたようだが、さらに裏から五名ほど現れ、客らしき男達をすぐに取り押さえてどこかに連行していったからだ。

 「よかった……」

 エマとリュックは胸を撫で下ろしたが、シーマと、向かい側の美女の表情は硬い。

 「またなのね。本当に、途切れることがないわ……」

 女性は隣に座る、先ほどシーマを救ってくれた長身の護衛に呟いた。護衛の男性は軽く頷いただけだったが、エマはその言葉が気になって思わず口を開いた。

 「あの……この街では頻繁に、こんなことが?」

 「そうなのよ。……今連れて行かれた人、おそらく何かお店に文句でも言っただけだと思うけど……これからどうなってしまうと思う?」

 この美女はエマより少し年上のようだが、大きな瞳には少女のような輝きが宿っている。悪者に見えないと気軽に喋ってしまう癖が、エマにはあった。

 「お城に連れて行かれて、お説教?」

 「それだけで済めばいいけど。ここの王様の趣味……聞いて驚かないでね。……『拷問』らしいの」

 「ええっ!?」

 エマは驚かずにはいられなかった。女性は人形のそれのように小振りな唇に人差し指を当てる。

 「しっ。……その後は殺されてしまうか、植物人間みたいになるんですって。まさか女性にはないと思いたいけど……」

 護衛の男性が鋭い目つきで周囲を警戒し、彼女に向かって、なりませんと呟く。……こんな話を聞かれれば、先ほど連行された男と同じ目に遭ってしまうことを示唆したのだ。

 「……そうね、食事を注文しましょう。あなたたち、お腹が空いているでしょう?」

 女性は品書きを手渡してきたが、シーマはそれを制した。

 「これ以上、余計な世話をしてくれるな。こっちにはこっちのやり方がある。素性も知らないお前たちに……」

 「あら」女性は少し不服そうな顔で、品書きを引っ込めようとはしなかった。「あなたはそう感じているかもしれないけど、彼女と彼がそう思っているとは限らなくてよ。私には彼女たちがあなたに振り回されているように見えて……」

 そこで、ぐうと大きな音が店内に響き渡った。……リュックは顔を赤らめ、恥ずかしそうに視線を落とし、エマも気まずそうに弟の腹部に目をやった。女性は一瞬きょとんとしたが、すぐにくすくすと明るく笑った。

 「ほら、やっぱり。かわいそうに、ちゃんと食事もしていなかったのね?裏なんかないから、遠慮せずに食べてちょうだい」

 エマとリュックは、躊躇いの色を隠せずにシーマへと視線を向けた。彼は普段の無表情に苛立ちの影を宿らせ、席を立とうとしたが……不安そうな姉弟の顔と、女性の「あなたも食べなさい」という言葉に引き留められ、仕方なく腰を下ろした。

 エマとリュックが、普段は口にも運ぶことのない上等な料理に、緊張と感動を交互に浮かべながら舌鼓を打っている間も、女性は料理の食材や調理法について賞賛を惜しまず、二人のよく似ている部分を指摘して姉弟と見抜き、温かな言葉で励ましの声をかけ続けた。エマはすっかりと心を許すあまり、うっかりと今までの旅路の詳細を口走りそうになり、シーマの鋭い視線に慌てて口を噤んでいた。

 その時、突如として店内の放送機から、聞き覚えのある声が響き渡った。エマたちのみならず、世界中の人々の記憶に鮮烈に刻み込まれたあの声が……。

 

 『……ポーレジオン国王に告ぐ。我が帝国への降伏を迫る。王城攻略までの猶予は、只今より三日間とする。異論があるならば、真正面から立ち向かってくれて構わない』

 

 ……場内の全員が、まるで時間が止まったかのように凍りついた。燃え盛る炎のような色でありながら氷のように冷徹で、何をもその魔力で石化してしまいそうな笑みが、鮮明に脳裏をよぎる。シーマまでも、無意識のうちに顔を強張らせていた。

 騒然とする店内の空気は、まるでマリプレーシュのあの酒場を思い起こさせた。今回は事前の予告があったにもかかわらず、ポーレジオン政府は一切の声明も反応も出さなかったため、皇帝の生の声が響き渡るその瞬間まで、市民たちは実感を持てずにいたのだ。

 向かいに座る美女の顔にも、険しい表情が浮かんでいた。……だが、どこかエマたちのそれとは微妙に異なる。恐怖とは一線を画した、複雑な感情が渦巻いているようで……彼女はエマ達の視線に気づくと、慌てて食器を置き、食事もせずにずっと彼女の護衛を務めていた長身の男性に話しかけた。

 「副……いえ、ルネ。もう行かなければいけないわね」

 女性が食事の途中で再び頭巾を被ると、護衛の男性は懐から必要以上の食事代を取り出し、シーマの前に無造作に置いた。またそれを制止しようとしたシーマに、女性は立ち上がりながら囁いた。

 「私があなたたちを助けたくてしたことだから、遠慮はいらないわ。もしあなたにここの食事代を支払う余裕があるなら、次から彼女たちにしっかり食べさせてあげてちょうだい」

 お互い無事でね、と付け加えると、女性は護衛たちに囲まれ、足早に店の外へと消えていった。他の客もいつの間にか家へ逃げ帰ったようで、気がつけばシーマたちだけがこの場に取り残されていた。

 「……あの王子が動いたという話は聞かないな。奴め、そもそも本物だったのか……?」

 しかし、あの紋章。数多の経験を積んできたシーマにとって、その真贋のほどは一目瞭然である。あれは……紛れもない本物だったのだ。

 「……あの人の言葉を、信じていいんでしょうか……?」

 リュックが怯えを滲ませた声で尋ねる。シーマは、紋章が本物であろうとなかろうと、レオナールと名乗るその若者のことなど最初から当てにしていなかった。

 「どちらにしろ、俺はこれから動く。お前たちは宿でも探してきたらどうだ」

 「動くって……どこへ?」

 到着したばかりのこの街で、もう次の行動に移るつもりなのか。エマは信じがたい思いで立ち上がったシーマを見上げる。

 「今、あの人も言ってたじゃない……疑いの目を向けられただけで、どんな目に遭うか分からないのよ」

 「あの女が怪しい」シーマは先ほどの一行が去っていった方角を鋭く見据える。「奴らの後を追えば、何か手がかりが掴めるはずだ。お前たちは大人しくしていろ」

 う告げると、シーマはもう身体を動かし始めていた。エマとリュックは慌てて女性が置いていった紙幣を掴み、店員に渡すと、何の判断もつかないまま、シーマの後を追った。

 「待って、私も一緒に行く。そのためにここまでついてきたんだもの」

 店を出たところで、エマはシーマの腕を掴みながら言い放った。必死の思いで追いすがるリュックは、姉の強い意志に驚愕を隠し切れない。

 「何もせずにじっとしているなんて、耐えられない……。兄さんのために、私にできることを精一杯やって、どうにかして手がかりを見つけ出したいの。私も、あなたと共に行くわ」

 「……」

 シーマは反論の言葉を飲み込んだ。エマの瞳に宿る強い決意は、揺るぎないことを物語っている。彼女は一度こうと言い出したら、決して翻さない。

 そう……三年前、シーマがエマと出会った時も、そうだった。

 シーマは小さく溜息をつくと、街道の奥へ消えかけている女性たちの背を見失わぬよう目で追いながら、言った。

 「……好きにしろ」

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