自らの恋人を連れ去った獣使いの王に、若者は果敢にも戦いを挑む。驚異的な強さで追い詰められた獣使いの王は、万事休すとばかりに海へと身を投げた。しかし、その前に、金の鍵を飲み込んでいたのだ。若者は愛しの姫君が、普段は獣を入れておく狭い檻の中に幽閉されているのを発見し、駆け寄る。だが、檻の鍵は既に王と共に海の藻屑と化していた。姫と若者は生涯、その冷たい鉄格子を隔てて、変わらぬ愛を誓い合うのだった……。
著名な恋愛作家エーヴルの作品のひとつに、そんな悲恋物語があったような気がする。……まさか自分たちが、その囚われの姫君のように、鉄格子の檻に閉じ込められる羽目になるとは、夢にも思わなかった。
エマとリュックは、あの命懸けの航海、港や店での出来事、そしてここまでの道のりで、恐怖の感覚がすっかり麻痺してしまったかのように感じていた。……しかし、『炎』をこれほどまでに間近で見ることで、自分たちの感覚がまだ正常に機能していることを思い知らされる。
(何故、気配を察知されたのか……)
いくらエマたちを連れているとはいえ、建物の構造、相手との距離……豊富な経験から、絶対に大丈夫だとシーマは確信していた。油断の致命的な代償に悔しさを覚えながら、グランフェルテ七世を鋭く睨みつける。
……もはや彼らには、あのレオナールを信じて待つこと以外、打つ手は残されていなかった。
兵士たちが念入りに檻に錠をかけたことを確認すると、グランフェルテ七世は、ゆっくりとした足取りで彼らの前に歩み寄った。シーマは思う。世界を震撼させた冷徹な嘲笑を、嫌というほど堪能できる絶好の機会だ。きっと多くの人々に自慢できるだろう。……もちろん、生きて帰れればの話だが。
ところが、皇帝は彼らの予想に反して、表情をころりと変え、まるで親友に話しかけるかのような爽やかな笑顔を浮かべた。
「そんなに心配するなよ。あんたら単なる反抗市民だろ?」
「……」
あまりにも突然の態度の変化に、シーマは警戒感を強めた。エマとリュックは硬直したまま呆然と口を開け、ただ続きの言葉を待つ。
「無駄な争いは好きではないんだ。どういう経緯でここを知ったか不思議だが、一度ここへ入ったあんた達を今すぐ解放する訳にはいかなくてな。そこで大人しくしていてくれれば、三日後には自由の身にしてやろう」
エマたち姉弟は戸惑いつつも、その言葉に恐怖と緊張の糸をわずかにほどいた。だがシーマは違う。
「……俺たち鼠が……大人しくしていなければ?」
「それは仕方がない。生体実験の材料にさせてもらう」
……リュックは気を失った。気の弱い彼が失神するのは珍しくないので、姉のエマはさほど気に留めなかった。だが、彼女の心には引っかかるものがあり、勇気を振り絞ってここで食ってかかった。
「あの女の人は……?彼女は、グランフェルテの人なの……!?」
「あの女?」
「とぼけないで、さっき隣に居た……」
シーマは正直、エマのこの大胆さに驚嘆した。自分でさえ、この圧倒的な存在感を放つ炎に、情けないことにほとんど片言でしか問いかけられず、意思表示する術を持たなかったというのに。
エマの言葉を受けた皇帝は、しばし考え込む素振りを見せたが、何かに気づいたようだ。
「……ああ。それでか……」
燃える瞳に、また少し冷酷な光が戻る。三人が思わず身を強張らせたその時……ギイと、古びた扉が開く音がした。
部屋の入口に現れた人物の気配に、エマは恐怖に怯えながらも意地で睨んでいた紅蓮からふと目を逸らす。そこに立っていたのは、深い栗色の髪をなびかせた美女……噂をすれば影、まさに昼間に出会った例の女性だった。 彼女もまた、エマたちの姿に仰天し……そして、皇帝に駆け寄った。
「ねえ、どうして彼女たちが捕らわれているの!?解放してあげて!」
「とんでもない。奴らはここに無断で侵入していた。捕えておくには、十分な理由だろ?」
「えっ……!?」
女性は再び驚愕の表情を浮かべ、三人に視線を向ける。 しかし……それ以上の疑念の目を彼女に向けたのは、エマだった。
「どういうこと!?私たちを騙したっていうの……!?」
「騙し……?」
「そうよ、私たちあなたを信じてたのに、正体を隠していたなんて……」
エマの言葉に、彼女の動きが止まる。……そして悲しそうに、琥珀色の瞳を曇らせた。
「……そうね。私がした事で、結果的にこんなことになってしまったのね……」
「……」
彼女自身にそのつもりはなかったのか。言い過ぎたと気づいたエマは、反省して取り繕おうとしたが……彼女はそれを制するように、言葉を続けた。
「ごめんなさい。私が立場を考えずに、余計な事をしたから。私ったら、いつも……」
次の言葉を探すエマの背後で、シーマは嘲るように言い放つ。
「ふん。人を捕らえておきながら、偽善を装うのもいい加減にし……」
ガシイン!!
鋭い金属音に、シーマは言葉を飲み込んだ。
「囚人は黙ってろ。命が惜しければ、自分の置かれた状況をよく考えてから発言するんだな」
紅蓮が、シーマを貫いた。……音は、どうやら皇帝が鉄格子を叩き付けたものらしい。その衝撃で、失神していたリュックが震えながら目を覚ました。
女性は両者のやり取りに耐えられなくなったのか、口元を押さえ、まるで逃げ出すようにその場を立ち去った。皇帝はしばらく彼女を気にかけているようだったが、やがて振り向くと、わざわざ備え付けの机の前にあった木製の椅子を兵に檻の前まで運ばせ、そこに腰を下ろした。
「さて。せっかく捕まえたんだから、尋問でもしようか」
このような作業は配下に任せておけばよいものを、余程、退屈をしているところを見つかってしまったようだ。グランフェルテ皇帝直々の尋問とは、なんとも光栄な限りだ。自慢話の引き出しがひとつ増えたと、シーマは心の中で自嘲気味に呟いた。
「簡単な質問からだ、さっきも聞いたけどな。なぜ、どうやってここに入り込んだ?」
「……」
「ポーレジオン市民じゃないんだろ?よそ者のようだからな」
「……さっきの女が喋ったのか?」
「こっちが聞いている。先に答えろ」
「……」
皇帝の女だか何だか知らんが、随分と口が軽いらしい。シーマは女性が出ていった扉を、憤然と睨みつけた。
「……何だ、見た目によらず大人しいんだな。もう少し心を開いてくれたって良いじゃないか」
皇帝は拗ねた子供のように唇を尖らせ、衣装の装飾品を指でくるくると弄っている。半ば遊び感覚で尋問されているのが、シーマにはますます腹立たしく感じられた。
そんな皇帝の態度に業を煮やしたのか、マリプレーシュでもちらりと目にした側近然とした金髪の青年が、皇帝の背後から鉄格子の前に歩み出てきた。深い紫紺の衣装に長剣を背負う姿は、特に飾り立てているわけではないが、どこか優雅で気品に満ちている。皇帝のお抱え騎士なのだろうか。
「答えてもらえないだろうか。これは真実を明らかにし、そなたたちの身柄を無事に解放するためにも必要な話し合いなのだ。一体、ここに忍び込んだ目的は何だ?」
騎士は三人と同じ目線になるように片膝をつき、問いかけた。その口調はグランフェルテ七世とは異なり、真摯で誠実な響きを持っていたが……たとえその目的が帝国側から見てどんなに愚かしく思われようとも、ここで秘密を明かすわけにはいかない。いや、むしろ奇跡の剣の名を口にすれば……今は比較的穏やかな相手の態度も一変するかもしれない。少なくともシーマはそう考えていた。
「……市民がこんな所に忍び込む理由は、おおよそ決まっているのではないか」
「我々のやり方に不満があるということか」
騎士はそれもやむを得ないという風に頷いた。会話が成り立っている様子に、皇帝は何だか不機嫌そうな表情を浮かべているが、先ほどのように怒鳴りつけるような素振りは見せない。この騎士は、丁重ではあるがひょっとすると皇帝以上の権力を持っているのかもしれないと、再び何かを問おうとするその姿に三人は改めて緊張感を覚えた。
「どこから来たのかも、教えてはくれないのか?」
「……無理だ」
シーマが答えると、諦めたのか騎士は振り返ってグランフェルテ七世に目配せした。
「あまりだんまりとしていても、身のためにならないと思うけどな」
皇帝は呆れたように立ち上がり、燃え盛る髪を後ろへ払った。豪奢な耳飾りが音を立てて揺れると同時に、強い香りが鼻をくすぐる。マリプレーシュで侯爵の趣味の悪さを蔑んでいたが、大して変わらないとシーマは思った。
「アル、俺はもう休む。これでも色々と気を使ってるから疲れてかなわないんだ」
皇帝は騎士にそう告げると、三人に向かってふざけたように軽く手を振り、、部屋を後にした。騎士もその後を追うように出ていく。
数人の帝国兵と、囚われの身の三人だけが残された部屋は、一瞬にして静寂に包まれた。
それから、おそらく一刻ほどが過ぎただろうか。
身体が極度の疲労に襲われているにもかかわらず、いつ処刑されるかも分からない恐怖に、三人は微睡むこともできずにいた。遠くから聞こえる潮騒の音さえも、子守唄にはならなかった。
「もう少し、慎重に行動していれば……油断していた……」
シーマは悔しさを滲ませながらそう呟き、壁を鋭く睨みつけている。
エマは自分がついてきたせいで、彼にそのような屈辱的な思いをさせてしまったことを後悔しつつも、あの女性のことが頭から離れなかった。皇帝の隣で会議に参加していた、栗色の巻き毛を持つ女性…….彼女が自分たちを陥れたなどと口では言ったものの、どうしてもそれが真実だと信じることはできなかった。
「レオナールさん……来てるんでしょうか……」
リュックがぽつりと漏らした。彼を信用していいのか疑問に思ったこともあったが、こうなってしまうと頼らざるを得なかった。
そのとき突然、部屋の鉛色の扉が開き、三人は驚きに身を竦ませる。……しかし、顔を覗かせたのは、エマが気にかけていたあの女性だった。彼女は檻の前まで来ると、ロングドレスの裾が床に擦れるのも構わず、そっと腰を下ろした。
「本当にごめんなさいね。あなたたちの素性さえ証明できれば、明後日には解放されるはず。だから、しばらくの間、耐えて協力して」
彼女は心から申し訳なさそうに、鉄格子の隙間から三人の顔色をうかがう。
「つまり、俺たちには密偵の嫌疑がかけられ、ここに拘束されているということか」
シーマの厳しい口調に、女性は曖昧に首を振るだけで、俯いてしまった。奥にいたエマは、彼女とゆっくりと話が出来る機会を見つけて、シーマの前に歩み出る。……といっても、狭い檻の中なので、膝で前に這うような感じだが。
「あなたは……あなたは、帝国の人だったの?」
「……ええ」
彼女は視線を落としたまま、答えた。
「皇帝と……とても親密そうだったわね」
「……」
「私達の事、知っていたの.……?それで……」
女性は泣き出しそうな表情で、ようやくエマと目を合わせる。
「知っていた?……何の事?まさか港で偶然出会ったあなたたちが、こんなことをするなんて。あなたたちこそ、まさか……」
……よく考えてみれば、その通りだ。自分たちの方こそ、彼女の純粋な親切心を利用して、ここに忍び込んだのだ。エクラヴワの王子だという若者と出会ったが、正式な契約を交わしていたわけではないし……世界のエクラヴワ大王に戦争を仕掛けるような帝国が、あらかじめ自分たちなどに目をつけている筈がない。
……だが、目の前の彼女が帝国の要人だとすれば、エマたちのこの軽率な行動は、かえって怪しまれても仕方がない。ましてやポーレジオン市民ではなく、よそ者だと知られてしまっているようだし……エマとリュックだけならまだ誤魔化せたかもしれないが、シーマがいて意図的に彼女の後を追ったのが明らかなら、なおさら状況は悪化する。
「……」
蒼白な顔で黙り込んだエマを見て、栗色の髪の女性は疑うように寄せていた眉間の皺を、わずかに和らげた。
「とにかく、もう少しだけ頑張ってちょうだい。あなたたちが怪しい人だなんて思いたくないの。私もできる限りの事は……」
彼女の言葉を遮ったのは、シーマだった。
「本当に解放されるかどうか、怪しいものだ。敵国の内情を知った者は、そのように騙されて最後は処刑されるのが常だ」
普段は無口なシーマだが、こういったところでは余計な一言が多い。リュックはその言葉に怯えてしまっている。女性は慌てて首を横に振った。
「そんなことはないわ。彼……そんな残酷なことは絶対に、しない」
「どうだかな。もし本当に解放するなら、グランフェルテ七世は相当な愚か者だ」シーマは押収されて遠くの壁に立て掛けられている、自らの剣を見つめる。「……その場で、解放した事を後悔させてやる」
「やめて!」
咄嗟の彼女の叫びに、シーマは容赦なく畳み掛ける。
「こんなところにまで、私情を持ち込むべきではないぞ。皇帝の忠犬め」
「違うの……そうじゃないの。彼は、皇帝は……私の弟なのよ……!」
……シーマは、すぐにその意味を理解できずにいた。そんな表現の仕方があっただろうかと、一瞬考えてしまった。目の前の女性を、皇帝の愛人だと決めつけていたからだ。……呆然と彼女を見つめるのは、エマとリュックの姉弟も同じだった。
女性はぎこちなく姿勢を正すと、一息ついて話し始めた。
「まだ自己紹介をしていなかったわね。私はディアーヌ。グランフェルテの皇女……グランフェルテ七世の姉なの」
三人は無言のまま、その言葉を聞いた。自分の姿に注がれる視線の意味を察して、高貴な身分を明らかにした彼女は、先に口を開いた。
「……異父姉弟だから、あまり似ていないかもしれないわね。……あなた達も、姉弟だったわよね?」
ディアーヌは、エマとリュックを交互に見ながら尋ねた。二人はよく似ているので、誰が見ても血のつながりがあると確信できる。
「なら、分かってくれるはずよ。……あなたたちにとっては敵かもしれないけど、私にとっては家族。……唯一の家族なの」
ディアーヌはそう言うと、再び琥珀色の瞳を伏せた。穏やかで、哀しみを帯びた表情。彼女がグランフェルテ七世を、実の弟をどれほど大切に思っているのか、その表情だけで読み取る事ができた。
帝国兵のひとりがディアーヌの傍らに近づく。もう遅い時間だから、休むように勧めたのだろう。彼女は立ち上がり、裾の埃を払うと、三人に声をかけた。
「とにかく私の方でも、もう少し交渉してみるわ。それに、もう少し快適に過ごせるように、次は何か持ってくるわね」
ディアーヌが部屋を出ると、再び遠くの潮騒が聞こえてきた。
「姉弟だなんて……」
彼女は紛れもなく帝国の人間だった。しかし、彼女から恐怖や威圧感は微塵も感じられない。高貴な衣装に身を包んだ美女ではあるが、内面は優しく親しみやすい、素晴らしい女性だ。その彼女と『炎』が血のつながった姉弟だなどとは、エマにはにわかには信じられなかった。
「唯一の家族……って、言ってましたね」
リュックが呟く。きっとアルテュールのことを思い出しているのだろう、寂しげな瞳をしている。エマも兄のことが頭から離れなかったが、その兄の行方を追うためにここへ来たのだ。
明日はディアーヌか、あるいはこの際グランフェルテ七世にでも、何かを聞き出さねばならない。絶対にここで一生を終えるようなことがあってはならないのだ。エマの胸には強い決意が湧き上がっていた。
そういえば……ふと、エマは気づいた。シーマのから、家族の話を聞いたことがない。もともと自分のことを饒舌に話すような人間ではないのだが、この機会に尋ねてみようかとも思った。しかし、彼は眠っているのか、それとも潮の音に耳を傾けながら物思いにふけっているのか、目を閉じてじっと佇んでいる。エマは、まあいいか、と思い留まった。
いつしか三人は、波の奏でる調べに意識を奪われていった……。