シーマはひとり、殺伐とし始めた城内を突き進んでいた。権力を落としかけた老人を脅していても無意味だと感じた彼は、その世話を帝国軍に任せ、マリプレーシュ城へ直接の手がかりを探しに来ていた。
歴史の浅いこの国では前例のない規模の混乱である。帝国軍の爆撃によって壁は崩れ、床は瓦礫で覆われていた。爆発の余波で窓は割れ、曲がった扉が音を立てて揺れている。逃げ遅れた貴族たちの叫び声が、止むことのない不規則な足音の中から時折、響き渡っていた。
そのような状況で、警備はほとんど機能していない。それに乗じて、この日を機に賊と化した者どもが内部に侵入し金品を漁るので、かつて華麗だったと思われる城内は目も当てられぬほど乱れていた。
（グランフェルテ七世か。『ラルム・デュ・シエル』を狙う者同士……この機会に姿を確認しておくか）
シーマは先ほど爆音がした方角へ向かう。広間へと続く通路に出ると、そこに立ち並んでいたはずの神話の登場人物を模した石像は無惨に崩れ落ち、豪奢な照明器具が床に散乱していた。既に貴族たちはどこかへ避難しているようだが、慌ただしく駆け回る城の兵士や召使たちを横目に、像の残骸にうまく身を隠しながら進んでいくと、聞き覚えのある声が自分を呼んだ。
「シーマ……！」
彼は驚いて、台座の脇の壁を振り返る。夕刻の差し込む光を頼りに見ると、そこに設けられた物置らしき、腰までの高さの扉が僅かに開いていて、そこから意外な顔がこちらを覗いていた。
「エマ、リュック……！何故ここに！？」
危険だから家にいるように言ったはずだ。いや、それ以前に何の心得もない彼女らが、一体どうやってここまで辿り着いたのか。ともかく攻撃の中心部に、戦う力の無い彼女達がのそのそやって来るとは、死ぬつもりでもない限り、その意図への予測をつけようがない。 エマ自身は、もはやそのように客観的に自分達の立場を考える余裕さえないといった様子で、煤で汚れた頬を紅潮させていた。
「兄さんが！アルテュール兄さんが、抗議隊に加わってここへ来たっていうから……！！」
「アルテュールが？あの足で……！？」
シーマは更に詳しく事情を聞き出そうとしたが、しかし……続きを言うことを妨げられた。
……突如、冷たい何かが背中に触れる。エマとリュックは短い悲鳴を上げ、その場で凍りついたように硬直した。
「……この城の兵士ではなさそうね」
凛々しい女性の声に促され、シーマは自らの迂闊さを悔やみながら、ゆっくりと振り返る。
装飾の施された軽鎧に身を包む、すらりと背の高い人物が、配下と思われる兵士達を数人引き連れてそこに立ち、彼に長剣を突きつけていた。このマリプレーシュ城の兵たちには見られない気高さと、思わず見惚れてしまいそうなほどの美貌を纏った女性兵士だ。
「……帝国兵か」
「立ち去りなさい」彼女は兜の下から覗く銀色の瞳でシーマを射抜くように見つめ、厳しい口調で続けた。「ここは、もはや市民が足を踏み入れられる場所ではありません。ましてや女子供を連れてなど」
女性兵士に彼らを傷つける意図はないようだ。ここであからさまに敵意を見せつけるのは賢明ではないだろう。シーマは手に握っていた剣を鞘に収め始めた。その様子を確認し、女性も剣を下ろし踵を返す……しかし、すぐに立ち止まった。
「……わざわざ逆らうつもり？」
鞘に納まりきらないシーマの刃……その次の瞬間、彼が取った行動を女性兵士は見逃さなかった。
「シーマ、やめて！！」
エマの悲痛な声が響く中、シーマが振り上げた鋭く光る長剣を、女性は華麗に身を翻して一瞬のうちに薙ぎ払った。カキインという金属のぶつかる音。剣は予想を超えた力で弾き返され、シーマは足元をふらつかせて危うく倒れそうになる。
「何だと……」
「単なる市民の抗議隊ではないようね。帝国騎士に楯突くほどの力があるわけでもないようだけれど」
女性は再び彼の目の前に刃を突きつけ、そう言いながらシーマの正体を探るように眺める。……が、その後ろで生きた心地がしないかのように怯えているエマとリュックにちらと視線を投げると、武器を鞘に収めた。
「……愚かな真似はよしなさい。彼女たちを守るのがあなたの務めでしょう」
その時、通路の先……城の中心部である広間から、男の悲鳴が響き渡る。
「グ、グランフェルテごときの手にかかるなど！！誰か、誰かおらんのか！！」
シーマは女性の麗姿の向こう、崩れてその役割を果たさなくなった扉の先に、悲鳴の主の姿を見つけた。先ほどまで裏門にいたはずのカプールが帝国兵に引きずられ、その大広間と思しき部屋まで連れてこられたようだ。その様子を女性騎士の配下のひとりが確認すると、彼女に告げる。
「大将、あれがマリプレーシュ候です。まずは奴を」
女性騎士は頷くと、もはやシーマ達の存在を無視するかのように背を向け、配下たちと共に足早にその広間へ向かって行った。シーマは体勢を立て直すとその後を追おうとしたが、エマが必死でその腕を掴んだ。
「もうやめてシーマ、これ以上は……もう帰りましょう！」
「お前達は先にそうしろ」
そう言ってシーマは、彼女の手を振り払って広間に進もうとする。……怒りと悲しみに震えるエマは、一瞬、シーマを止める手を緩めそうになった。しかし彼女達が何とか忍び込んできた時よりも、更に事態の進んでしまったこの状況で、姉弟が自ら動く事は余計に危険である。
エマは仕方なく深呼吸して自らを落ち着かせると、口をぽかんと開けて呆然としている弟を引き寄せ、シーマの背後からなるべく離れないようにぴったりと寄り添った。それなのにシーマは彼らを気遣うこともなく、どんどん奥へ進んでゆく。
「やめろおおお！」
再びカプールの決死の叫びが響く。城内は物々しい混乱の山場に差し掛かろうとしていた。シーマは通路の終わりまで来ると、ようやくエマとリュックの姿を隠すようにして端へ寄り、僅かに残って斜めに倒れかけている扉の陰から大広間の中を覗き見た。
「やめて……やめてくれえ……」
マリプレーシュ候は普段、街の視察で見かける横柄な態度とは打って変わって、ぼろぼろの醜態をさらけ出していた。艶のある顎までの栗毛の鬘はずれ落ちて、肩の辺りに引っ掛かっている。どうやら失禁までしているようだ。護衛も全て剥ぎ取られ、代わりに何人もの長剣を構えた帝国兵が何人も彼を取り囲んでいた。
「た……助けて……」
すると、彼の悲壮な言葉に反応したように……シーマたちのいる方と反対側の間仕切りが不意にガサッと動いた。
「侯爵閣下、ご安心ください――」
そこから現れる、巨大な黒い影。
「民の多い西門を守っておりましたがゆえ、うっかり遅れてしまい申し訳ございませぬ。しかし近衛隊長タイタスが参りましたからには……このようなネズミども、瞬時に一掃してご覧に入れましょう」
……さすがの帝国兵たちも、これには動揺せざるを得ない。その影は、誰かがその姿を形容して名付けた通り名であろうか……まさにその通りの、天井に届きそうなほどの圧倒的な巨体である。タイタスは床を軋ませながらそれを重々しく揺らして進み出ると、マリプレーシュ候の前に立ち、盾となった。そしてたじろぐ帝国兵たちを、その落ち窪んだ眼窩の奥から覗く獣ような目で嘗めるように睨みつける。
「マリプレーシュ侯爵閣下に、エクラヴワ大王陛下に逆らう者は……この斧の餌食となるのみ！！」
ブンッ！！
その恐ろしく大きな体躯に対してはあまりに小さく見えるが、鋭い光を放つ斧を……周囲を囲んだ帝国兵たちに向けひと回し、振りかざした。
ガシイン！！
何かが激しくぶつかる音が響く。
シーマの背から広間の様子を伺っていたエマとリュックは、タイタスという大男が懐から斧を取り出した瞬間には既に顔を伏せていたのだが……その衝撃音に思わず目を上げ、そしてその目を疑った。
背が高くしなやかな体つきをした、凛々しくも極めて美しい女性……先ほどシーマ達の目の前に現れた、あの女性騎士。彼女が、たったひとりで咄嗟に踊り出て、巨人の斧をその両手に握った長剣で支えているのである。
「この女……っ！」
タイタスは一度斧を後ろへ引くと、別の方向から再び彼女を狙う。
「うおおお！」
「何度来ても同じ！」
強き彼女はその手の剣を横へ払いつつ、白いマントを翻らせて身を一回転させ、次の攻撃も華麗に受け止めた。
「貴様っ……！！」
タイタスにとって、自分なら容易に捻り潰せそうなひとりの女性に、絶対の自信を持って繰り出した攻撃が受け止められているのは屈辱的だったようだ。
「こんなことが……！！」
その傷だらけの顔の中に埋もれた三角形の目に激しい怒りを露にすると、タイタスは三たび……今度は頭上から渾身の力を込め、辺りの空気さえ切り裂きそうな勢いで斧を振り下ろす。
かつてなく強く鳴り響く金属音。
「……！」
……今回の攻撃の方向には、女性騎士は少し計算を誤ったようだ。右に捻った無理な体勢で何とか相手の武器を受け止めた。もちろん、普通の女性であれば支えること自体が難しいであろうが……その剣を握る腕が限界に近づき、震え始めていた。
(く……持たない……！)
「ウィンバーグ大将……！」
帝国兵たちが彼女のものらしき名を呼び、助けに駆け寄ろうとするが、タイタスの親衛隊も負けていない。しばらく帝国軍の強さに圧倒されて手が出せずにいたマリプレーシュの兵たちも応戦し始め、騎士の配下たちを彼女のもとへ近づけまいとした。
グランフェルテ帝国兵たちは確かに、長く奴隷として飾りのように扱われていた事実からは、誰もが想像もできないほどの強さを持っていた。だがその数は、混乱や逃走により元よりもかなり減っているマリプレーシュ兵たちよりも、さらに少なかったのだ。たとえ彼らひとりひとりが優れた戦闘能力を持っていたとしても、束になってかかってくる相手に勝つのは、やはり容易な事ではない。再び喧騒を極めだした場の中央で、再び。
カン！！
ウィンバーグと呼ばれた女将軍の剣が、ついにタイタスの刃こぼれした斧に弾き飛ばされた。
「……！！」
武器であり、同時に身を守る防具でもあった長剣を失った彼女は、その巨体から逃れる術もなく立ち尽くす。
「終わりだ……！」
タイタスはにやりと笑うと、斧を大きく掲げて勢いをつけ……そのまま容赦なく、振り下ろした。
肉を斬り裂く、身の毛もよだつような音が……その場にいた者たちの耳を貫く。
シーマの背に顔を伏せていたエマとリュック.……そして女将軍の周囲にいた帝国兵たちまでもが、衝撃的な光景を見るまいと思わず目を背けた。
……そして、たった今、自らが真っ二つに切り裂かれたと思い込んでいたのに、何の痛みも感じないことを不思議に思ったウィンバーグ大将自身は……ようやくうっすらと目を開き、顔の前に翳した腕をゆっくりと外す。
そこには……これまた不思議な事に、彼女が目を閉じる前と同じ体勢のタイタスの姿があった。彼女の兜のすぐ上にまで迫っていた斧には、一滴の血液さえついておらず、兜を僅かにも傷つけた形跡はない。
タイタスはそこで時間を止められたかのように、ぴたりと動きを止めているのだ。一瞬の後……その巨大な壁は轟音と振動を立てて、大理石の床に崩れ折れた。
暫しの時が経ち……土煙が収まった、その向こう側。
そこに現れた姿に、大将はほっと胸を撫で下ろし、その他の帝国兵たちは彼女と同じ思いを抱くと同時に……強い緊張を憶える。
タイタスの巨体、その攻撃を受け止めた女性騎士、あまりにも現実離れした戦いの様子……シーマとエマたちはその全てに対して呆気にとられていた。しかし次に目にした衝撃的な光景は、それまでのどれをも凌ぐ驚愕を彼らにもたらした。
