【I-021】黒薔薇の誘惑

 ひとり書斎に戻り、机上に積み上げた書類に手を伸ばしたものの、内容が頭に入ってこず、ヴィクトールはそれを再び卓上に投げ出した。

 戦の準備以外にも、山積する業務がある。国内議会の承諾書を精査し見解を示したり、貴族の嘆願書に裁可を下したり、城下町の市長からの書簡に返信したり……だが実のところ、彼はこういった細々とした仕事はあまり好きではない。

 静かに書類と向き合うよりも、実際に行動し、鋭敏な感性を活かして状況を読み取って次の一手につなげるのが、自身の得意だと自負している。……しかし周囲の目にはそう映らないらしく、中庭で気まぐれに読書していると、宮廷画家から「何と画になることか」と言われ、勝手にそこで肖像画を描かれることもある。エクラヴワに機嫌伺いで訪れていた頃は、そういった特徴をよく利用したものだが。

 ……さらに今日は、集中を阻む別の要因がある。先ほどの、黒薔薇ごとき衝撃的な姿の女性……メイリーンという新魔術将軍だ。大抵の者はこの紅蓮の姿に初めて接すると、緊張で身を強張らせるというのに……彼女は一片の戸惑いも見せぬどころか、逆にこちらが当惑するほどの魅力を放っていた。

 まったく仕事に手を付ける気になれないため、彼は椅子に腰掛けて五分と経たぬうちに立ち上がり、出窓に肘をつき、夕刻の朱に染まりゆく庭園を眺めた。……散歩に出れば気分転換になるだろうが、うろついていればまたロジーヌや暇を持て余した貴族たちが追従を示しに来るに違いない。革命を起こし自由の身になったと思いきや、思惑通りにはいかないものだと軽くため息をついた。

 「あ、フェリシティなら邪魔されずに済むな……」

 それは、彼が乗る飛竜の名だ。珍しい色彩を持つため、燃え上がる炎のような彼が騎乗すると、大空を舞う姿は一際目を引く。すぐに城下町の市民たちの目に留まり、騒ぎになってラウラやアルベールから叱責を受けるのは目に見えているが……このまま城の中に籠もるよりはましだろう、と彼は窓から離れ、扉に向かおうとした。

 すると、突如としてその向こうから三度のノックが響いたので、彼は慌てて書机の椅子に舞い戻り、姿勢を正して応じた。

 「何用だ」

 「陛下、ドゥメールでございます」

 ヴィクトールは何故かそこの鏡に目をやり、襟元や髪型を整え、必要以上に背筋を伸ばしてしまってから、入室を許可した。

 ……先ほどの妖艶な衣装に一枚、薄手の黒の羽織を纏ってはいるものの……その余裕を漂わせる微笑みはそのままに、メイリーンは扉を締めると最敬礼を捧げた。ここではそこまでの礼は不要だ、他の元帥もそうしていないからとヴィクトールが告げると、彼女は「かしこまりました」と応じて軽い敬礼にとどめた。

 「玉座の間では大勢の人間が集う中、陛下に十分なご挨拶を申し上げる機会を頂戴できませんでしたゆえ、改めてこちらに参上いたしました。……どうかなさいまして?」

 思わずヴィクトールは彼女に見とれてしまっていたのであろう、そう問われたので、そう問われて慌てて咳払いをした。

 「……いや。……美しいな」

 「まあ、それはこちらの台詞ですわ。お噂以上でございますもの」

 にこやかに微笑まれると珍しく胸の高鳴りを覚えてしまい、ヴィクトールは自らを取り繕うかのように席を立ち、先ほど二元帥と打ち合わせをしていた応接卓を彼女に勧めた。そして向かい側へ移動し、相手の胸元に目を向けないよう意識しながら長椅子へ腰を下ろす。

 「……あの場は形式張った雰囲気で緊張したことだろうが、ここではくつろいでも構わない。随分な逸材だそうだな?」

 「いいえ。いかに経歴が立派に見えようとも、肝心なのは実戦でお力添えができるかどうかでございます。……もし差し支えなければ、早速次の作戦についてお伺いできれば幸いでございますわ」

 召使いが紅茶を運んでくるのを眺めながら、ヴィクトールは先刻ここで行われていた会議の内容を思い返す。

 「確か、騎士兵団のローランから説明する手はずになっていたと思うが……」

 「いいえ……?何も伺っておりません。それどころか、まだローラン元帥とは個人的にご挨拶も交わしておりませんし」

 ……あの様子ではそうなるだろうな、とヴィクトールは特に違和を覚えなかった。彼は先の打ち合わせでも使用した地図を再び取り出して、作戦の概要を新魔術元帥に説明し始めた。

 「……というわけだ。前回、前々回は騎士兵団のみの同行であったが、今回は技術兵団、魔術兵団も帯同する予定だ。初陣から大いなる貢献を期待するが、覚悟はできているか?」

 「……」

 メイリーンはすぐには返答せず、漆黒の麗しい瞳を地図へ落としてしばし考える素振りを見せた。……そして顔を上げ、再び真っ直ぐに紅蓮の眼差しと向き合う。

 「そもそも、次の標的をガーディアンに定めること自体が、誤りでございます」

 「は?」

 ヴィクトールは思わずそのような声を漏らしてしまってから、またひとつ咳払いをし、半ば睨むように彼女を見据えた。

 「……今、何と言った?」

 「これまでと同じ手法で臨もうというのは、余りにも短絡的です。そのようなやり方では、この快進撃も長くは続かないでしょう」

 「……」

 彼女の断固とした物言いに、ヴィクトールは言葉を失った。新参者のくせに、と怒りのようなものが腹の底から込み上げて来るのを感じたが……それを、この明らかに聡明な女魔術師の前で、稚拙に露わにするのも品位に欠けると悟った。彼はまるで敵前でそうするかのように、唇の端を上げ、紅蓮の眼差しで相手を射抜いた。

 「……ふん、面白い女だ。そこまで言うからには、相当な自信のある策を用意しているのだろう。ぜひ拝聴したいものだ」

 「勿論でございますわ」

 メイリーンはやはり動じる様子もなく、薔薇の花弁が舞い落ちるような微笑みを浮かべる。そして鮮やかな紅に彩られた爪の先を、ガーディアンからずっと左下へと滑らせ……ある一国を指し示した。ヴィクトールはそれを見て、訝しげに眉を寄せる。

 「……アロナーダ王国?」

 「ええ。ここは、外敵に過敏な反応を示すであろうガーディアンとは対象的に、開放的な国でございます。我が国が接触しても、比較的円滑に受け入れていただけることでしょう」

 それを聞いてヴィクトールは地図から顔を上げ、呆れたように背もたれに身を預けた。

 「アロナーダは独立国だ。エクラヴワの支配下にないのなら攻める意味はないし、逆に世界から反感を買うだけだ。我々の目的はエクラヴワの真似事ではないはず……それに」

 アロナーダは戦を忌避する平和国家だが、同時に巨大な国でもある。いくら帝国の三大兵団に精鋭たちを揃えているとはいえ、そこへ攻め込むのは無謀としか言いようがない。

 「……これが貴官の策というわけか?」

 心底落胆したような声色に、メイリーンは「まあ」と言って、指を地図から艶やかな唇へと移し、困ったように主君の顔を見上げた。

 「陛下は女性を口説き落とされる際も、いつもそのように強引になさるのです?」

 「は!?」ヴィクトールは再び、そのような反応をしてしまう。「今、作戦会議をしているところだろ?」

 「左様でございます。正面切って落とそうとするだけでは、上手くはまいりませんわ。……国家も、女も」

 「……」

 「アロナーダを攻めるのではございません。同盟を結ぶのです」

 メイリーンは自信に満ち溢れた微笑みを浮かべながら、再びアロナーダを指し示し、軽く二、三そこを叩いた。ヴィクトールは予想外の提案に、腕を組んだまま椅子に深く腰掛け、複雑な表情でその地点を見つめる。

 「同盟……」

 「ええ。アロナーダは機械技術の発達した、資源豊かな大国。我が国にないものを多く有しております。しかしそれゆえに、エクラヴワ大王国からの干渉を常に警戒していると聞き及んでおります」

 さらに『忠犬または追われる竜』と呼ばれるその大陸の頭部……アロナーダから東に遠くない場所には、シュバリエとヴァンテールという、数十年来争い合う二国がある。この二国の均衡が崩れ、周辺への侵略を始めれば……今は平穏なアロナーダも、戦火に巻き込まれかねない。そんな彼の国にとって、先日のグランフェルテ帝国の宣戦布告は第三の脅威となり得ているだろう。だからこそ同盟を提案すれば、アロナーダには敵意がないという意思表示となり、かつエクラヴワや周辺国への牽制にもなるという算段だ。

 「……それにアロナーダ王カリムス殿下は、先々代グランフェルテ五世陛下の皇妃アドリーヌ様……つまりあなた様のおばあ様と、親交が深かったそうでございます。それならばなおさら、有利な条件になりませんこと?」

 ……そのような話は初耳だ。この女魔術師はどこからそのような情報を仕入れて来ているのか、はたまた虚言を弄しているのか、珍しくも見抜けずにヴィクトールはただ沈黙せざるを得ない。そんな彼の様子を見て、メイリーンはまた悪戯っぽく微笑んだ。

 「もちろん、わたくしの策をどうされるかのご判断は、陛下にお委ねいたします。ローラン元帥やウィンバーグ元帥にご相談なさっても構いませんわ。……もう夜の刻となりますので、本日はこれにて」

 彼女は口をつけていない紅茶に「ご馳走様でした」と言い、立ち上がる。妖艶な仕草で軽く敬礼をすると、扉へと歩を進め、その姿を消した。

 「……」

 ヴィクトールは椅子で腕組みをした姿勢のまま、呆然と扉を見つめてしまっていた。やがて、地図に目を落とし、アロナーダ王国と記された文字を凝視するが……余計なことが気になり過ぎて、今聞かされた話の内容を十分に消化することができなかった。

 仕方なく、振り返って壁際の振り子時計に視線を移す。すっかりと暗くなってしまった部屋で、橙色の灯りを頼りに文字盤を読むと、もうすぐ晩餐の時間だ。近頃は多忙のため、なかなかディアーヌと落ち着いて食事を共にすることができず、今日こそは間に合わせたいと思っていたのだが……このまま食堂へ向かっても、姉との穏やかな会話に集中できるとは思えない。彼は立ち上がると、広げたままの地図を片付けることもせず、執務室を後にした。

 ……この時間なら、流石にロジーヌや貴族たちも姿を消しているだろう。幾人かの召使に、「どちらへお出かけですか」「もうすぐ晩餐のお時間ですよ」と声をかけられたが、ヴィクトールはそれらを無視して城の中央部へやってきた。

 薄暮の中庭には、裏邸のものより大きな噴水がそびえ立つ。女神が掲げる壺から優雅に水が流れ落ち、かすかな灯りに照らされている。その周囲には花々が咲き誇る植え込みが配され、やはり白い木製の長椅子が設置されていた。ヴィクトールはそこに一旦は腰を下ろしたものの、椅子には座り飽きたなと思い直し、生垣の内側に広がる芝生へと足を運び、そこに直に身を横たえた。

 両手を頭の下に置き、美しい星空を眺めていると、諸々の煩わしさが霧散するかのように感じられる。明日に持ち越して、今宵はゆっくり憩おう……目を閉じると遠くで、ラウラが自分を探し回る声が聞こえ、同時に、そこに放たれている兎や小鳥たちが、本来なら眠りについているはずなのに、彼を気遣うかのように寄り集まってくるのを感じ取った。

 「お前たちは、優しいな……」

 彼の強大な魔力に呼応して、幼少の頃から彼の周りにはこうして動物たちが集まってくるのだ。それを城下町の孤児院の子供たちに見せてやると、『若様、動物さんとお話できるの?』と目を輝かせる。そんな幸福な光景を、二度と卑劣な者どもの手に渡すまい……。

 そう思いながら再び睡魔に襲われていたところ、誰か女性が間近で自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。……ロジーヌやラウラのような耳障りなものではなく、さらに深い微睡みの世界へと誘うような、心地よい声音だ。晩餐に姿を見せないことを案じた姉だろうか、と一瞬は思ったがそうではない。

 (マリー……?)

 ……そんなはずがない。ヴィクトールはここでようやく我に返り、跳ね起きた。隣に屈み、薄明りに照らされながら微笑んでいたのは……先ほど去ったはずの、黒薔薇のような女性魔術師だった。

 「な、何だ。まだ何か用があるのか」

 思わず取り乱しそうになる彼の姿に、メイリーンは可笑しそうに小さく笑う。

 「だって、わたくし就任直後から食事も取らずに奔走しておりますのに、陛下はお昼寝をなさっていらっしゃるんですもの。羨ましくて」

 「……勝手だろ、そんなの」

 口を尖らせて顔を背けながら立ち上がろうとしたヴィクトールを、メイリーンは「お待ちになって」と引き留めた。不機嫌な表情のまま彼女を見ると、何か人目を忍ぶ話でもあるのか、唇の横に手を当てる仕草をしている。

 「……」

 怪訝に思いながらも、先ほど言い忘れた策でもあるのかもしれないと、そこに耳を寄せる。……するとメイリーンは突如として、彼の首に腕を回し、その唇を頬に押し当ててきた。

 「なっ……!!」

 驚愕し、ヴィクトールは彼女の腕をそこから引き剥がすようにして仰け反る。……体裁も何もかも忘れ、思わずその顔を凝視すると、メイリーンは両手を口元に当て、純粋な乙女のようにはにかんだ様子で、相手の姿を愛おしそうに眺めていた。

 「……わたくし、陛下に一目惚れしてしまったみたいですわ」

 彼女はそう言ってまたふふっと声を出して笑うと、ゆっくりと立ち上がって、噴水の植え込みの向こうへ小走りで駆けていった。

 「……」

 ヴィクトールはただただ、自らの心の内の整理もできず……やや遅れてラウラがここへ呼びに来るまで、呆然と佇んでいた。

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