【I-019】姉と弟

 グランフェルテに伝わる伝統舞踊は、鑑賞する者の心を洗うかのような優美な舞である。純白の柔らかな衣装を、そよ風に舞い散る花弁のごとく大きく広げ、上下に優雅に波打たせる。その簡素さゆえに、踊り手自身の魅力が存分に発揮され、見る者を深く魅了するのだ。

 しかしディアーヌにとって、教養としてこの舞踊を習わねばならない時間は、まさに拷問に等しかった。踵の高い靴は足を痛め、胸の下を窮屈に締め付ける長い帯は、しばしば足に絡まって踏んでしまいそうになる。そして何より、彼女のその不器用さを細かく責め立てる師匠の声に、思わず耳を塞ぎたくなるのだった。

 「ディアーヌ様、あなたはこの国を代表される皇族でいらっしゃるのですよ。お母上のイザベル様は、この舞がとてもお上手でございました。まして……」

 ……グランフェルテがエクラヴワ支配下にあった頃から、ディアーヌの舞の師匠は既に四十年もこの城で教鞭を執っているという。そのため、こうして頻繁に母の名を持ち出すのだが、ディアーヌにとってそれ以上に重圧に感じるのは、別の名だった。

 「イザベル様のお母様、つまりあなた様のおばあ様であるアドリーヌ様は、それはそれは麗しい舞を踊られるお方でございましたのよ。その香り立つような、言葉では言い表せないほどの妖艶さといったら……」

 うっとりと語る師匠の顔をちらりと見て、ディアーヌは嫌悪感に小さな溜息をつかずにはいられなかった。祖母は舞を生業としており、それが祖父との邂逅のきっかけとなったのだから、上手いのは当然だ。それに……祖母や母の、誰をも魅了したという色気は自分には受け継がれず、全て弟の方へ流れてしまったのだ。すっかりと機嫌を損ねた彼女は、師匠から顔を背けるどころか、壁一面に貼られた鏡の方へ体ごと向いてしまう。

 ……そして、彼女はこの時に鏡に映る自身の姿を見る度に、心が抉られるような思いに駆られるのだ。純白の衣装は、グランフェルテ民族特有の白い肌と金糸の髪を持つ者が纏うからこそ、幻想的な世界を創り出すことができるのだ。母には、さぞやこの衣装が似合ったことだろう。……しかし、ディアーヌのような深い栗色の髪、小麦色の肌では、そのような神々しさは表現できない。

 「……ばあや、今日はもうお終いにして。私、足が痛くてこれ以上は踊れないわ」

 「もう、仕方がありませんこと。お靴の大きさは何度も確認させていただいたのですから、慣れていただくしかございませんのよ」

 師匠は眉間にしわを寄せながらも、ディアーヌに着替えを許可した。女官たちが手際よく彼女の身体の汗を拭き取り、淡い菜の花色のドレスを着せて練習室の外へ送り出すと、そこには背の高い護衛の騎士が待機していた。

 「お待たせ、ルネ。この後は少し休憩に入っても良いのだったわよね?」

 「は、どちらへお向かいになりますか。お供致しますので、お申し付けを」

 一切の感情を挟まず、淡々と自身の職務の内容のみを口にするこのルネという騎士は、あのポーレジオンでも彼女の外出に同行してくれた。彼もまた異国の出身であろう、黒に近い癖毛の長髪を後ろで束ね、薄茶色の顔にかからないよう整えている。同じく黒い切れ長の目は、その表情の乏しさ相まって冷たい印象を与えてしまう。

 が、仕事の正確さと腕前は確かで、アルベールが元帥を務める帝国騎士兵団において副帥を任されている。弟ヴィクトールの専属の護衛はアルベールであることを考えれば、ルネが皇姉であるディアーヌを護衛するのは自然な流れだ。しかし、そうなって日が浅い為か、ディアーヌはいまだ彼の存在に馴染めずにいた。

 「……ねえルネ、お城の中は安全だからずっと付いていなくても大丈夫よ。あなたも軍のお仕事が忙しいでしょう?」

 「しかし、これも職務でございますので」

 「……」

 この状況を打開してくれる存在に頼るしかなさそうだ。ディアーヌはしばしその姿を探して回廊を歩いてみたが、見当たらない。そこの近衛騎士や召使に訪ねても行方は分からないとのことだったが、ちょうどそこへ彼付きの高級女官を見かけたので、ディアーヌはドレスの裾を摘んで駆け寄った。

 「ラウラ、ヴィクトールはどこ?確か今日はまだ会議の時間じゃなかったと思うのだけど……」

 「あら、若様なら」

 このラウラという女官は、ヴィクトールが五歳でこの城にやってきた頃から彼に仕えている。そのため皇帝にこのような呼称を使い、すっかりと彼の母親のような貫禄さえ持ち合わせているのだが、今では女官長の立場も兼ねているため、この城では多くの者に畏れられている。……その容貌は小柄で年齢不詳、可愛らしいとさえ言える雰囲気ではあるのだが。

 「……裏のお邸でお休みでございます。続けて二か国にお出向きになったものですから、だいぶお疲れのようですわ」

 「裏?……珍しいのね、ありがとう」

 ディアーヌはラウラに礼を言い、すぐそこにある裏への渡り廊下へ向かう。ついて行こうとしたルネであったが、ラウラがその袖を掴んで鋭い視線を向けた。

 「それでは姫様もお窮屈でしょう。皇族の方々のお心を軽くして差し上げるのも、仕える者の務めでございますわよ」

 するとルネは相変わらず無表情ながらも、小さく会釈し、渡り廊下入口の脇の壁へ寄った。……ラウラの言う通り、ディアーヌの心持ちはこれでかなり軽くなった。

 しかし、すると特に弟に用事もなくなってしまったが、せっかくの機会なのでヴィクトールとゆっくり語らう時間を持とうと思った。……作戦開始以来、彼は本当に多忙を極めており、毎日の晩餐ですら顔を合わせられないことも多く、必要最低限の会話しかできていなかったのだから。

 裏邸のアーチには、たった一人の兵士だけが配置され、ディアーヌに敬礼を捧げた。……行き交う貴族や軍人、召使いたちで賑わう表とは対照的に、ここはもはやほとんど使用されることがないため、静寂が支配している。ディアーヌは熟知した構造の建物内を、きょろきょろと見回しながら歩を進めた。

 すると、噴水広場の……といっても現在は水は止められているが、そこの木製の長椅子に紅色の影が見えた気がした。そっと近づいてみると、ヴィクトールがそこに横たわり、深い眠りに落ちているようだ。大層な肩書など持っていない、ただの若者かのような佇まいに、ディアーヌは思わず微笑みを浮かべた。

 彼を不用意に起こさぬよう、忍びの者のようにその傍らまで歩み寄ると、ディアーヌは小花がちらほらと咲く芝の上に直接腰を下ろした。……弟は並外れた第六感の持ち主のはずだが、よほど疲労が蓄積しているのだろうか。ディアーヌがその顔を覗き込んでも、さらには真紅に混ざった蜂蜜色の部分の髪を優しく撫でてみても、一向に目覚める気配はなく寝息を立てている。

 「……はあ、本当に綺麗な顔をしているわよね……」

 彼女は小さく溜息をつき、眉を山型に下げた。……歴代の皇帝の肖像が飾られている『太陽の間』の、右端に掲げられた女性……美しき前帝イザベルに、髪や瞳の色こそ異なれど弟は瓜二つで、ディアーヌは複雑な思いに駆られることがある。彼女の侍女である心優しいフローレが、「姫様は温厚なおじい様によく似ていらっしゃいますわ」と、その隣の五代皇帝アルフォンスの肖像を指し示してくれるのだが……誰もが彼女の父である、エクラヴワ人のアルマンについては暗黙の了解のように一切触れようとしないのだ。

 そのような事情があったため、ディアーヌが七歳の時にヴィクトールが城へ来た当初、彼女は弟を激しく嫌悪していた。人間離れした髪と瞳の色を持っていて気味が悪いのに、それでいて……ディアーヌが物心つく前から毎日眺めていた母の肖像に、そっくりなのである。

 彼女より二つ年上で、この頃から兄のように親しかったアルベールは、それまでずっと剣の修行の合間にはディアーヌと遊んでくれていた。それなのに彼までもが、この『弟』が来た途端に、やれ姉弟なのだから仲良くしろだのとお説教ばかりするようになり、ついには絶え間なく泣いている『弟』に付ききりでいるようになってしまった。ゆえに、ディアーヌはそんな『弟』なんか、早くエクラヴワの役人に殺されてしまえばいいのに、と思っていた。

 ……しかし、ディアーヌが十歳の誕生日を迎えた日、そのエクラヴワの役人たちが突如として、彼女に手を伸ばしてきたのだ。

 「お誕生日のお祝いに、あちらのお部屋に素晴らしいものをご用意いたしました。この城の姫は、十歳を迎えると皆これを授かるのです。そう、イザベル様もね……」

 そう男たちは告げたものの、何故だかディアーヌの体の芯を、電流が走るような恐怖が貫いた。いやだ、と抵抗する自分をひとりの男が無理やり抱え上げようとした瞬間、その男は突然、熱い、と叫んで彼女の体から手を離したのだ。

 「貴様……その力を使えばどうなるか、散々叩き込んだはずだぞ!!」

 怒号と共に部屋に駆け込んできたのは摂政のデジレで、掴み上げられたのは自分ではなく、その場に居合わせていた『弟』の方だった。

 「逃げて……!!」

 首元を締め上げられながら、そしてさらに数人の男に詰め寄られながらも、『弟』はディアーヌにそう叫んだ。彼女はその光景に言い知れぬ恐怖と驚愕を覚えながらも、我武者羅に、先ほどデジレによって開き放たれた部屋の扉へと走り出した。そんな彼女の背中に届いたのは、特別に母親の命は保証しよう、その代わり貴様が姉の『代わり』を務めろ、という会話の断片だった。

 それ以降も折に触れて、ヴィクトールは彼女を守ろうとしてくれた。常に涙で潤んでいた真紅の瞳には、いつしか燃えるような強い意志を滾らせ、城を牛耳るエクラヴワの男たちからディアーヌのみならず、裏邸で怯えるように暮らす親族たち、虐げられる兵士や召使いたち、苦しみにあえぐグランフェルテの民を救おうと、幼さの残る体で奔走するようになった。

 どうしてそこまでするの、と、ある時ディアーヌは思わず彼に問うた。私よりずっと酷い目に遭っているのに、私も、ずっとあなたに冷たくしてきたのに。するとヴィクトールは、姉が話しかけてくれたことが嬉しくてたまらないという表情を浮かべ、

「だって俺は、この国の皇帝だから」

と答えたのだった。

 ……胸が締め付けられるような思いに駆られ、小さく息をついた瞬間、長椅子の方から「うーん」という声が聞こえた。

 「あ、ごめんね。起こしてしまったかしら?」

 ディアーヌが振り向くと、弟は椅子に横たわったまま窮屈そうに体を伸ばし、真紅の瞳を片目だけ僅かに開けた。

 「……姉さん。もう終わったのか、稽古は?」

 彼は豪奢な衣装をたくし上げるように上半身を起こしながら、「痛た」と首筋を摩った。ディアーヌはその姿を見て、思わず笑みをこぼす。

 「そんな場所で眠るからよ。そもそも、どうして裏邸なの?大王国の占領時代の屈辱を思い出すのが嫌だから、近寄らなかったんじゃなかった?」

 「表は、うるさいんだ。ロジーヌとか……せっかく休みを取ったって、落ち着いて過ごせやしない」

 まだ眠気が残っているのか、ヴィクトールは再び目を閉じ、しばらくうとうととしていたが……ふと我に返ったように「今、何の刻だ」とディアーヌに尋ねた。

 「まだ大丈夫よ。せっかくだから、もう少しゆっくりしていらっしゃい。私もようやくルネの監視から逃れてこちらに来たところだし、すぐには戻りたくないわ」

 「それなら、姉さんはもう少しここにいればいい。俺はそうもいかないんだ。新たな魔術兵団の元帥が決まったそうだし……」

 そう言いながら彼は自ら金の懐中時計を取り出し、「ああ、まだか」と呟くと、長椅子の背もたれに寄り掛かって両手を頭の後ろで組み、空を仰ぎ見た。

 「ああ、いい天気だな。戦争を仕掛けたなんて忘れそうになるな……」

 その言葉を聞いてディアーヌは再び微笑むと、ポーレジオンの詰め所で見せていた姿とは打って変わった彼の表情を慈しむように眺めた。……今、目の前にあるのは、ディアーヌにとっては長年親しんできた弟の素顔だ。グランフェルテ皇帝として世界に立ち向かうヴィクトールを、ディアーヌも先日初めて目の当たりにしたが、あのようにしていたら疲弊するのも当然だろうと感じていた。

 「……ポーレジオンで会ったあの子たち、あの後どうなったの?私すごく気になって落ち着かないの。予定より早く帰されてしまったし……」

 「そんなこと、気にしなくていいんだ」ヴィクトールは身を乗り出し、姉の表情を窺うように覗き込んだ。「それから、もう付いてくるなよな。俺もアルも作戦に集中できないし、何やってるかも大体分かったろ?」

 「あなたには分からないわよ、取り残される者の気持ちなんて……」

 ディアーヌは拗ねたように一度は顔を背けたが、立ち上がってドレスに付いた草を払い、弟に柔らかな笑みを向ける。

 「……変な場所で休んだから、体が凝っているでしょう?肩でもほぐしてあげましょうか?」

 「別にいいさ。それより、やっぱりもう行こうかな。遅れると、ラウラにまた叱られるしな……」

 ヴィクトールも立ち上がり、再び伸びをしてから、先ほどディアーヌが通ってきたアーチへ向かう。

 「起こしてくれなかったら、寝過ごすところだったな。ありがとう」

 「いいのよ、起こしに来たわけじゃないし。それより……」ディアーヌは弟の傍らに立ち、随分と背丈に差がついてしまったなと感じながら、彼を見上げた。「今日、魔術元帥が決まって……またすぐに出陣するつもりなの?そんな勢いで進めていたら、体を壊してしまわない?」

 「仕掛けたものを止めるわけにはいかないんだ。ゆっくりしていたら、逆に攻め込まれてしまうかもしれないしな」

 そう言ってしまってから、ヴィクトールはちらりと姉の不安そうな顔を見て、表情を和らげながら言葉を付け加える。

 「……まあ、姉さんは気にしなくていい。国は三大兵団がしっかり守っているからな。心配せずに普通に城で待っていてくれれば……」

 そこでアーチの向こうで待機しているルネが、こちらに向かって敬礼の姿勢を取るのを見て、彼は眉をひそめ、ディアーヌの耳元に顔を寄せた。

 「……急な人事だったから仕方がないだろうが、ルネじゃなくて……同性の騎士の方がいいんじゃないか?」

 「だって」ディアーヌはいかにも不服そうな表情を浮かべ、弟を見上げる。「私だって、マリーが護衛の方が良かったわ。大好きだったのに……ヴィクトールが、追い出してしまったんじゃない」

 「お……追い出したんじゃない。勝手に出て行ったんだ」

 そう言ってヴィクトールは腕を組み、姉から離れてむくれてしまう。……ディアーヌはそんな彼を横目で見ながら、そんな話をするのはまだ早すぎたかしらと呆れたように呟きつつ、待機しているルネの方へ歩いて行った。

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