【I-027】護衛の騎士

 あの衝撃の宣戦布告から、およそ三カ月……かつての大王国領マリプレーシュとポーレジオン王国が次々と瞬く間に制圧される様を目の当たりにし、世界は深い恐怖に震えていた。……しかし、その後しばしグランフェルテ帝国の動きがはたと停止したように見えたため、今度はその不気味な静けさに人々は戦慄した。そして今回、唐突に発表されたアロナーダ王国との同盟締結は、わずかに緩んでいた緊張の糸を再び引き締める結果となった。

 アクティリオンのように、帝国への反発や接触を試みようと水面下で動いている国家や組織は他にも存在するかもしれない。しかし、これまで世界を統べ支配していたはずのエクラヴワ大王が一向に動く気配を見せないため、表立って大きな行動に出る者の姿は見られなかった。

 砂漠の国からの長旅よりようやく帰還すると、ヴィクトールは軍事会議や議会への顔出しを全て後回しにし、真っ先に、ずっと気にかけていた姉の元へ向かった。中庭に隣接する半露天の喫茶室で、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みを湛えながら、侍女のフローレと歓談しているディアーヌの姿を見つけた時、彼は心底安堵した。

 「姉さん」

 衛兵に取り次がれるのも待たず、自ら席に近づき椅子を引きながらヴィクトールが呼びかけると、フローレは慌てて跪き、ディアーヌは優しげな琥珀の瞳を彼女から弟へと向けた。

 「あらヴィクトール、お帰りなさい。アロナーダはどうだった?」

 「ああ、暑かったし、寒かったさ。こっちは変わりないか?」

 給仕の召使たちが急ぎ彼の紅茶を用意するのをディアーヌは見届けてから、自身のカップに口をつけ、柔らかな笑みを浮かべた。

 「大丈夫よ、そんなに心配しなくても。サイラスが居てくれたお陰で、ルネとふたりきりで窮屈な思いをすることもなかったし」

 そう言いながら、弟がなお不安げな表情を浮かべているのに気づくと、思わずふふっと吹き出してしまいそうになり、彼女は指先で口元を軽く押さえた。

 「本当に大丈夫だってば、別に口説かれたりしていないわよ。……でもさすがね、彼の話はとっても面白いの。お城や世界の歴史もよく知っているし、人間関係にも詳しくて……もちろん、機械の事もたくさん教えてもらったわ」

 「そうか……なら……」

 「あ、もちろん、マリーの話はしていないわよ。安心して」

 姉のひと言に、ヴィクトールは口元まで運んでいた紅茶を皿に戻し、気まずそうに前髪を弄った。

 「……そんなこと、どうでもいいんだ。とにかく姉さんが楽しく過ごせていたなら。……そうだ、アルは来たか?」

 「いいえ」ディアーヌは首を横に振る。「……忙しいんじゃないかしら?あなたがここにいる分の仕事もこなさなければならないでしょうし」

 すると、ヴィクトールは不満げに口を尖らせた。

 「……あいつ、仕事馬鹿だ。帰ってきた時くらい少しは休めばいいのに」

 そう言いながらも、自身も出された紅茶にほとんど口をつけないまま立ち上がった。

 「ちょっと探してくる。……フローレ、ラウラがうるさいだろうから適当に言い逃れておいてくれないか」

 突然声を掛けられて、フローレは顔を朱に染め、裏返った声で「はい」と返事をした。……清純な印象の彼女はヴィクトールと同い年の二十歳で、どうやら彼に淡い想いを寄せているようだ。その様子が愛らしくて、ヴィクトールこうして時折わざと軽く声を掛け、からかってしまいたくなるのだ。

 入ったばかりの喫茶室を出た彼は、アルベールの居場所を推測する。帰宅するとは聞いていないので、おそらく城内の騎士兵団の会議室か稽古場、あるいは彼の執務室辺りにいるだろう。その方向へ回廊を進もうとした矢先、コツコツと高い足音がやや急いだ様子で近付いてくるのが聞こえた。

 「陛下」

 振り向くと、こちらへ駆け寄って来たのは魔術元帥である。彼女はヴィクトールの傍らに辿り着くと軽く敬礼し、小型の地図らしきものを取り出した。

 「早速ですが、次の作戦についてお話したいのです。少しお時間をいただけませんでしょうか?」

 「いや、早速すぎる。今しがた帰還したばかりだぞ」ヴィクトールは面倒そうに眉をひそめる。「夕方に軍事会議の時間を設けてある。そこで話せばいいじゃないか」

 「ですが、他の二元帥へ伝える前に陛下にご確認いただきたいことがございまして……」

 メイリーンがそう話す間にも、ヴィクトールは背を向けて立ち去ろうとする。彼女は慌てて地図をしまい、その腕を掴んだ。

 「お待ちになって、そちらは騎士兵団の詰所でございましょう?ローラン元帥はよくて、どうしてわたくしの話は聞いてくださらないの」

 ……フローレのように遠慮すれば少しは可愛げがあるのに、この女はどうしてこうも馴れ馴れしいのか。ヴィクトールは苛立たしげに彼女の手を振り払う。

 「アルは俺の護衛の騎士だ、当たり前だろ。いい加減にしろ」

 彼は再び背を向け、足早に立ち去ってしまった。メイリーンがその後ろ姿を見送りながらため息をついていると、背後から誰か近づいて来るのを感じた。

 「無駄ですわよ、貴女」

 何事かと振り向いてみれば、そこには長い金髪を豪華に巻き上げた、貴族らしき女性が立っていた。

 「軍の新しい統率者なのでしょう?でも私には分かりますのよ。そんな振りをして皇帝陛下に取り入ろうとしているのでしょう」

 「……失礼ですが、どちら様でいらっしゃいまして?」

 メイリーンは僅かに顔をこわばらせ、その女性を睨むように見る。

 「まあ、失礼いたしました。私はバティーニュの娘、ロジーヌと申しますわ」

 その名を、メイリーンも知っていた。そして、彼女が執拗に皇帝に付き纏っているという噂も。……バティーニュ伯爵は、メイリーンの義父であるドゥメール侯より身分が下の筈だ。礼儀作法も知識も欠けた厚かましい女だと内心呆れたが、メイリーンは黙して語らなかった。

 「……バティーニュ伯爵令嬢、大変失礼いたしました。わたくしに何か御用でしょうか?」

 「別に、貴女に用があるわけではないけれど。ご存じないようだから親切をしてあげようと思っただけよ」

 ロジーヌは虚勢を張るようにメイリーンを横目で見て、鼻で笑った。

 「あの方にはね、想い人がいらっしゃるの。……ずっと衝突ばかりしていらしたし、相手はもうこの城を去ったのに、それでも諦め切れないご様子なのよ」

 「……」

 「わたくしだって、十分に承知しているの。……その上で敢えて馬鹿な女の振りをしているだけなのよ。それでも……」

 ロジーヌは下卑た笑みを浮かべ、得意げに続けた。

 「……既成事実さえ作ってしまえば、こちらの勝ち。ですからわたくし、毎日栄養のあるものを摂って、体調管理には細心の注意を払っているのだけれど、なかなか思うようにいかないものね」

 ……何と下品極まりない女だろう。貴族の名を借りてはいるが、所詮は高級娼婦に過ぎない。メイリーンは吐き気すら覚えたが……やはり、余計な言葉は控えた。するとロジーヌは物足りなく感じたのか、数歩を進んで、挑発するようにメイリーンの目前に立ちはだかった。

 「まあ、そんな女性は星の数ほどいるようだから、わたくしも油断できませんわ。貴女も精一杯努力なさることね。……あの方も、他国の君主のように妃を妃を複数持たれるようになればいいわね」

 「……」

 メイリーンは思わず眉間にしわを寄せてしまいながらも、彼女の話が終わるまで耐えた。

 「……ありがとうございます。ですがわたくしは軍人でございます。令嬢は話の的を外されていらっしゃるようですが」

 あら、それは失礼したわと言って、ロジーヌはロジーヌはまた鼻で笑い、背を向けると、豪勢なドレスの裾を引きずりながら立ち去っていった。……あんな品性に欠ける女性の相手までしなければならないのだから、皇帝も想像以上に多忙なのだと、メイリーンは先ほど急かすように声をかけてしまったことを反省した。

 気を取り直そうと、彼女は踵を返し、魔術兵団の詰所へ向かう。……しかし脳裏に過ぎってしまったのは、これから作戦を展開するつもりの地の風景ではなく……ひとりの女性の姿であった。

 (『ご存じない』ですって?……いいえ、よく分かっているわよ)

 ……その光景を目にしたのは、メイリーンが魔術研究所を卒業し、兵団に入って間もない頃だ。まだ実践はおろか魔術の修行さえ許されず、先輩の研究に使う材料や魔導書などの荷物を、日々髪を振り乱して運んでいた時のこと。

 皇帝と共に視察に訪れた騎士兵団の小隊を率いていたのが、彼女だった。背が高く凛として、薫り立つ白き花のような麗しさに、同性であるメイリーンも暫し見惚れてしまったほどだ。屈強な騎士達を前に泰然自若とし、しかし決して男性的な態度をとる訳でもなく、時に彼らの頼れる姉のように温かな笑みを見せていた。

 そして、メイリーンがそれまでも何度か目にしていた少年皇帝は、常に心に防壁を張り、みだりに他者が侵入するのを阻むかのように孤高を保っているのに……彼女と言葉を交わすふとした瞬間に、その壁を崩す様子を見せるのだった。

 (……あの人が、陛下の……)

 ……メイリーンは回廊の大理石に落としていた視線を上げる。分かっていた。だからこそ、彼女が出陣していたマリプレーシュの陣を外し、その存在がなくなってから、満を持してここに立ったのだ。

 もし、あの人が同じ舞台に立っていたなら……自分があの防壁を崩すことは、途方もない難題となっていただろうから。

 騎士兵団詰所となっている東の離れへ入ってすぐの所で、アルベールは副帥であるルネに何やら指示を出しているところだった。入口を守る騎士たちが、訪れた皇帝に最敬礼をする声で、元帥はこちらに気付いたようだ。彼はルネとの話を中断し、ヴィクトールのもとへ歩み寄って来た。

 「ああヴィクトール……済まない、護衛を務められなくて。実は姉が体調を崩しているようでな」

 「ソフィーが?」

 ……アルベールの年子の姉ソフィーは、騎士元帥として勇ましい彼とは対照的に、線の細い儚げな女性である。唯一の家族である弟はこうしてグランフェルテ城への出仕に忙しく、ほとんど帰宅しない生活を送っているため、ソフィーは広いローラン邸に、召使いたちとひっそり暮らしている。

 「……大したことはないと思うのだが、心の拠り所がないと思うので気がかりでな。ひと晩、看病に戻っても構わないだろうか」

 普段の整然さを崩さないままアルベールは語るが、同じように姉だけをただ唯一の家族とするヴィクトールにも、その心情はよく理解できる。彼はそれまでアルベールに言おうとしていたことを飲み込み、頷いた。

 「勿論。ひと晩と言わず良くなるまで数日、泊まってこいよ。護衛のことなんか気にするな、自分の身は自分で守れるさ」

 「そうだな。あの闘技場での戦いぶりを見ていたら、俺の護衛などいらんと感じたな」

 アルベールはそう言って少し笑った。

 「……まあ、お前の苦手な『あれ』にさえ気を付ければ大丈夫だろう。夕刻の会議は、申し訳ないがルネに任せておいた。ウィンバーグとドゥメールにもよろしく伝えてくれ」

 「分かった、大事にな」

 ヴィクトールは彼とその姉ソフィーを気遣う言葉を掛けると、ルネによろしく頼むと言い、本城へ戻ることにした。……もともと何を言いに彼を訪れたのかというと……ディアーヌをもう少し気に掛けろと、余計な世話を焼こうとしただけだ。

 アルベールとディアーヌは、ヴィクトールが城へ来る以前からの幼馴染だ。まるで兄妹のように常に寄り添って幼少期を過ごしてきたが……ある事件をきっかけに、元々意思の強いアルベールが一層に鍛錬に励むようになってしまってからは、ディアーヌとの接点が激減してしまった。

 ディアーヌは二歳上のアルベールを深く慕っていたが、いつしか、それは恋心へと変わっていたようだ。かつてのようになかなか気軽に話せる存在ではなくなってしまったことを……彼女は口には出さないものの、心の奥底ではとても寂しく思っているようである。  アルベールも彼女を大切な存在だと認識してはいるのだろうが……戦の策謀には長けていても、恋の機微には疎い彼のことだ。ヴィクトールがもどかしく思いながら二人を引き合わせようとしても、アルベールは「彼女は妹のようなもの」と、自身の本心を認めようとしない。

 ゆえに、ディアーヌこそアルベールが護衛として護るべき存在ではないかと、ヴィクトールは考える。しかしローラン家当主は皇帝の護衛を務めねばならないという伝統があり、頑固な議会の古参議員たちも、真面目一辺倒なアルベール本人もそれを変えようとしないため、護衛をさほど必要としないヴィクトールに騎士が常時付き添うという状況が続いているのだ。

 (……まあ、傍にいなければいないで、寂しいけどな)

 軽く息をついて、再びディアーヌのもとへ戻って報告しようかと思案していると、前方から怒気を含んだ表情でこちらへ突進してくる者の姿が見えた。

 「若様、またそんな風におひとりでぶらつかれて。たとえ城内とはいえ、万が一の事態が起これば、どう対処なさるおつもりですの」

 ……どうやら、フローレには上司であるこの女官長ラウラの目を欺くことは叶わなかったようだ。

 「……いいだろ、別に。もうエクラヴワの役人もいないんだし。自分の城だぞ」

 「そういった問題ではございません」 彼女は先ほどの魔術将軍以上の力で彼の腕をしっかりと掴み、彼の来た方向やその周囲を見回した。 「……アルベール様はどちらに?若様、また逃げ出しておいでですの?」

 「人聞きが悪いな……」

 しかし、まるで彼の母親然とするラウラに一度捕まってしまえば、それこそもはや逃げられないのは十分に承知している。彼は大人しく連行され、昼食後に控える議会への出席準備のため、ラウラと共に支度部屋へ足を向けた。

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