アロナーダの公用船に紛れて停泊していた飛翔船だが、街が寝静まった深夜に動かすのは少なからぬ緊張を伴った。グランフェルテに監視されていないか、攻撃を受けないかと神経を尖らせながら、緑色の船体は静かに夜空へ浮かび上がった。
アナは傷だらけで帰還したレオナールの姿に愕然とし、服を引き剝がして湿布を貼るなど献身的に世話を焼いてくれた。だが彼は徐々に一定になっていく船の機動音を聞きながら、別の思いに沈み、再び深く項垂れる。
(……あの頃から、ホントは鬱陶しいと思われてたのか……)
わずか半年前。レオナールは先ほど刃を交えた相手と、穏やかな時を過ごしたはずだった。いつものように大王への謁見の合間に中庭で本を読んでいた彼に、レオナールは笑いかけ、その肩を叩いたのだ。
そもそも、レオナールがグランフェルテ七世と初めて出会ったのは、六年前……レオナールが十四歳になったばかりの頃だった。やんちゃ盛りの彼は、ジャン達とつるんで街で悪さばかりをしていたが……将来の大王位継承者としてそのような振る舞いは許されないと、しばしば変装した兵士に酒場で捕まり、エクラヴワ城へ強制的に連れ戻されていた。
剣の稽古ならまだしも、座学などに全く興味を示さなかった彼は、たびたび教師の目を盗んでは逃亡を図っていた。その日も城の裏手の塀をよじ登って越えようとしていたところを、召使いのひとりに目撃され、呼び寄せられた屈強な兵士たちによって引き摺り降ろされてしまった。
「ざっけんな、大王になんかなる気はねえ!離せよ!!」
そう叫んで抵抗するレオナールに兵士たちも手を焼いていたが、彼を発見した召使いが、、王子の関心を何とか引こうとしてこんな話を持ち出した。
「そうそう若様、本日はグランフェルテの皇帝がこちらを訪れているのですよ」
「はあ?だから何だってんだよ。そんなヤツ知らねえし」
その小国を、父が最も従順な属国として扱っているという程度の認識はあったが、レオナールの興味を惹くには至らない。それは十分に察していたらしく、召使いは続けた。
「皇帝とは申しましても、若様と同年の十四歳だそうです。それと、その者は一目見たら忘れられぬほどの奇抜な特徴を持っているとか」
「……?」
「何でも、『魔族』との混血だそうで。……いかがでしょう、一度ご覧になってみては。きっとご友人とのお話の種になることでしょう」
召使いの巧みな誘導に、レオナールは思わず引き寄せられてしまう。『魔族』という少数種族のことをどこかで耳にしたことはあったが、その具体的な特徴までは知らなかった。召使いも詳細を語らなかったため、却って好奇心を掻き立てられたレオナールは、正式な場を用意される前に、自ら父大王の玉座の間付近の回廊を行ったり来たりし始めた。
(一体、どんなヤツなんだ?『魔族』って……)
そういえば、父や兄がよく『グランフェルテの化け物』という言葉を口にしていた。それまで無関心だったため、単に相手を侮蔑する表現だと考え、さして気にも留めていなかったのだが……今になってその真意を推し量ると、様々な想像が膨らんでくる。
(角と牙が生えてんのかな?毛むくじゃらだったりすんのかな……)
……怖いもの見たさに近い気持ちで待ち続けたが、一向にそれらしき姿は現れない。
(……もう、面会終わっちまったかな)
落胆のため息をつくが、また見る機会もあるだろうと気持ちを切り替え、再び脱出の好機を窺おうと城内を歩き始める。幾つもある庭園のうち、比較的小規模な中庭に差し掛かった。……ここは背の高い植込みに囲まれているため、人目が届きにくい。
(確か噴水脇の地下通路から、外に出られたハズだ)
レオナールは見回りの兵が遠ざかるのを確認すると、回廊から飛び降りて植え込みの間に素早く身を隠す。しばらくそこへ潜伏し、自分の行動が気づかれていないことを確信すると……小枝に全身を引っ掻かれながらも、何とか中庭側へ体勢を変え、今度はそちらに人影がないことを確認しようとする。
「……!?」
古びた小さな噴水の流れよりも先に、視界に飛び込んでくるものがあった。鮮やかな紅。
(……鬘か?)
……あんな色のものを付けて、一体何をしているのだろう。よく見れば背に届くほどの長さのその所々に金髪が混じっており、意図的に目立とうとしているとしか思えないのに、こんな人目につかない場所にいるのが不自然に思えた。
(仮装の宴でもあったかな?……ここで準備して脅かそうとしてんのかな?)
それなら先に脅かして、邪魔な場所から追い払ってやろう……悪戯好きなレオナールはそう考えてにやりと笑うと、植え込みからそっと抜け出る。盗人のように気配を殺して二、三歩進んだつもりであったが……相手は、すぐそれに気づいてしまったらしく、振り返った。
その者の手に乗っていたらしき、栗鼠や小鳥が一斉に散る。……しかし、そんなものを気に留めている場合ではなかった。
(……何だ、こいつ?)
レオナールは自分が今、夢か幻の世界に入り込んでしまったのではと錯覚する。……警戒心を露わにして彼を見つめる両眸は、髪よりも少し深い緋色。白にわずかに桃色を帯びた肌。その美しさと佇まいを包むものは……現実世界の人間のものではなく、しかし瞬時にして魅了されてしまう、神々しい精霊のようであった。
少年なのか、少女なのかも判然としないが、年齢は自分とそう変わらないのではと推測できる。……とにかく、このようにその存在にただ見惚れているのも、何か気まずいと感じ始めたレオナールは。
「……何してんだ、こんなとこで。ひとりで……」
取り敢えず、そのように声を絞り出してみる。だが、相手は彼の正体が掴めないがゆえか、緊張を解かず、ただ探るように黙したままだ。
「あ、オレは……レオナールってんだけど」
彼がそのように名乗ると、相手は些か慌てた様子を見せつつも、慣れた様子で跪いた。
「大変失礼いたしました、殿下。私は、グランフェルテ七世ヴィクトールと申します」
それを聞いて、レオナールはようやく先ほどの召使いの話を思い出し、その内容と照らし合わせることが出来た。
「ああ、おめえが……そうなのか。……いや、そんな堅苦しくなんなくていいよ。オレは、そういうの気にしねえから」
そう言って相手の最敬礼は解いたものの、まだ心を開くには遠いようで、グランフェルテの少年皇帝は彫刻のように整った顔立ちを和らげない。レオナールはそれをどうにかしようと懸命に考えを巡らせた。
「えっと……すげえな、動物懐かせんの、上手えな。好きなのか?」
「……はい。動物は……外見だけで、判断することをしませんから……」
……やはり、その話題を避けて会話を進めるのには無理があったかと、レオナールは反省する。そして先程まで好奇の目で彼の姿を品定めしようと考えていたことなど棚に上げて、こう続けた。
「いや、オレも動物っぽいから、人を見た目で区別したりしねえよ。もしかしてそれでここに隠れてるんだったら……オレ、話し相手になるぜ。同じ十四歳なんだろ?」
「……」
「初めてウチ来たのか?いや、オレもあんまりウチに居ねえんだけどな。城ってさ、オレにはあんまり合わなくてよ、今日も……」
レオナールが一方的に話すのを、しばらく硬い表情で、身構えながら聞いていた様子のグランフェルテ七世だったが……ふと、あるところでふっと薄く微笑んだ。
「……面白い方なのですね、レオナール殿下は。もう少しお話を伺っていたいのですが、そろそろ……大王陛下の元へ謁見に参らねばなりません」
「おっ?……まだだったのか、そりゃ悪かったな」
レオナールは相手が少しばかり打ち解けてくれたことを大変に嬉しく思う一方で、ここで別れなければならない事を残念に感じた。グランフェルテ七世は優雅な仕草で再び礼をすると、中庭から去っていった。
その日からレオナールは彼のことが頭から離れなくなり、これまでなるべく足を運ばないようにしていたエクラヴワ本城に、頻繁に通うようになった。グランフェルテは遠隔の地にあるため、なかなか再び少年皇帝に会える機会は訪れなかったが……彼のことを探り回るうちに見えてきたのは、父大王がグランフェルテ帝国に、そして世界に対していかに卑劣で残虐な、不当な支配を行っているか、という事実だった。
グランフェルテ七世を三月に一度招き寄せ、遠路遥々来訪した折に、父が彼に何をしているかを召使いから聞いた時……レオナールは耳を塞ぎたくなった。父は、玉座に謁見にやって来た彼を罵り、その場に集まった貴族たちへの見世物として、反応を楽しむだけではない。一晩、二晩の滞在中は……自らの寝所へ呼びつけるというのだ。
……ゆえに、レオナールはたまたま居合わせていた玉座の間で、挨拶を終えた少年皇帝が父大王を振り返り、『あの表情』を見せたのを目撃した時も……背筋は凍りついたものの、意外には感じなかった。にやにやと配下と雑談を始めている父は、なぜ気づかないのだろう。自らの仕打ちの非道さを、それがもたらすであろう壮絶な結末を――。
(……アイツと、話さなきゃ)
レオナールはその後、まだ滞在しているはずの紅の姿を探し、あの小さな中庭へ足を踏み入れた。案の定、彼は設けられた木の長椅子でひとり本に目を落としていた。レオナールはそこへ駆け寄ると、相手が挨拶する間も与えず、いきなり言葉を繰り出した。
「あのさ、ウチのオヤジが……すげえ酷えことしてんの、オレ知ってる。本当に済まねえ……オレが謝ったって、仕方ねえんだけど」
「……」
「だけどよ、もし……それで仕返ししてえとか考えてたら、ちょっと待ってくれ。オヤジが可愛いから言うんじゃねえ。おめえにだって、いいコトなんかねえから……!」
相手は一切言葉を挟まず、ただ勝手に激情するこの第三王子の顔を訝しげに見つめているだけである。それでもレオナールは思いを伝えたくて、続けた。
「オレもずっと何もできなかったけど、ぜってえ、オヤジにやり方改めてもらう。オレはバカだから、国のコトも全然勉強してこなかったけど、もっとマジメに頑張って、こんな現状変えられるように次の大王目指す。だから……」
「……殿下」
熱弁する王子を制するかのように、少年皇帝はそう静かに、しかし明確に呼びかけると、またあの日のように穏やかに微笑んだ。
「ここで、そのような事を仰るべきではありません。貴方にとってお寛ぎになれる場所だと存じますが……」
彼は本を閉じ、隣に腰を下ろしていたレオナールに少し顔を寄せると、やや声を落とした。
「……宮廷というのは、様々な人間の思惑が渦巻く場所。……貴方ご自身のお命を狙う者が、いないとも限らないのですよ」
「……」
青ざめて口を噤むレオナールに、グランフェルテ七世は軽く息をついてから、再び落ち着いた表情で、続ける。
「……私は、大王陛下に感謝申し上げておりますよ。このような姿で生まれ、本来ならば血筋にそぐわない異端者として、即座に処刑されていてもおかしくはありません。しかし、陛下は私に生きる権利を与え、小国とはいえ歴史に名を残すグランフェルテの国を、このように任せてくださっているのですから」
「……」
彼の話にレオナールは一定の論理は感じたものの、納得は……到底、できなかった。
「……んなワケあるかよ。感謝なんか……してるワケねえだろ。あんな目に遭ってよ……」
しかし、少年皇帝はそこで立ち上がった。
「殿下、お気にかけてくださり……ありがとうございます。あまりここにいると随行の者に叱責されますので、失礼ながら私は、これにて」
……そうしてまた去ってゆく真紅の姿を、レオナールは呆然と見送るしかなかった。グランフェルテ七世に、これ以上の屈辱を味わってほしくない……しかし、彼自身は今すぐそれを変えることを望んでいないのかもしれない。
(……いや)
あの時の、『あの表情』。……やはりどうにかしなければならない。それが出来るのは自分だけだと、レオナールは決意を新たにした。
それ以降、グランフェルテ七世がエクラヴワ城を訪れる度に、レオナールは執拗に接触を試みた。会話の形は常套的で、中庭でつかの間の休息を取っている相手の元へ、レオナールが突如現れ、胸の内を激しく吐露するという形から始まった。
相手は容易に本音を明かそうとしてはくれなかったようだが……諦めの悪さには、自信がある。どうにか心を開いてもらおうと熱弁を振るうちに、いつしか同年の少年皇帝に諭されるような立場となり、しかし核心に触れようとすれば巧みにかわされ、去られてしまう。
それでもいつか、いつの日か、彼は心を許してくれるはずだと信じて、レオナールは懲りずに挑み続けた。自身が将来、大王の座に就いた暁には……彼と共に、何か大きなことを成し遂げられるのではないか。父や先祖たちが蝕み続けたこの世界を、浄化できるのではないか……。
……そのような夢想を胸に秘めながら、最後に穏やかな会話を交わした、あの半年前の日。
「オレら、もうすぐ二十歳になるんだよな」
いつもの如く、レオナールは彼の腰掛ける木の長椅子に寄り添うように近づき、そう切り出した。
「おめえより一足早く誕生日迎えちまうけど、たったひと月しか違わねえんだよな、確か。今年はさ、オレ……何か新しいことが始まるんじゃないかと思うんだ。いや、始めてえな。そう思わねえか?」
レオナールが息を弾ませながら熱く語るのを、グランフェルテ七世は本を閉じじっと耳を傾けると……珍しく少し明るい表情をして、頭上に広がる空を仰いだ。
「……始まりますよ、今年は」
「え?……おめえも、そう感じてんの?」
レオナールは自ら同意を求めておきながら、相手の予想外の反応に思わず食いついてしまう。その驚きに見開かれた栗色の瞳に、真紅は麗しく笑み返してひとつゆっくりと頷く。
「世界は変わりますよ、間もなく。貴方の望み通りにね……」
「そうだよな」レオナールは喜びに胸を躍らせ、思わず彼の肩を少し強く叩き、そして立ち上がった。「ようし、オレも負けずに気合い入れるぜ。今年こそ、ガラッと世界変えて見せような!」
……楽天的なレオナールは、そのように何も考えずに両手で拳を作って叩き合わせ、無邪気な笑顔を全開にして相手に向けたのだった。