ついに、長き夜の帳が明けた。
本日、昼までにポーレジオンまたはエクラヴワからの申し出がなければ、前回の恐怖が再び繰り返されることになる。昨日去ったディアーヌと入れ替わるように、朝早くから次々と帝国兵たちが到着し、物々しく戦闘準備を開始する。一気に高まる緊張感は、牢の中の三人にも肌で感じられた。
「皇帝の言葉を信じるなら、王が戦前に降伏しようがしまいが、俺たちは解放されるはずだ。だが……」
シーマは、簡単に逃げ出すことなど考えていなかった。両軍が激突するその瞬間こそ、奇跡の剣に関する情報を入手できる最大の機会だと考えているからだ。この機会を待ち望み、彼は屈辱的な檻の奥で大人しい鼠を装い、耐え抜いてきたのだから。
だが、新たな懸念事項も浮上していた。昨日、皇帝が彼に投げかけた言葉……まるで、心の奥底に秘めた野望を見透かされているかのようだった。さらには、エクラヴワと繋がりを持ってしまっていることも。
「ねえ、シーマ……」エマが不安げな表情で近づいてきた。「あの人。マリプレーシュで会ったあの人、来てくれるのかしら……？」
リュックもちらちらと気にかけるように、彼の顔をうかがう。だがシーマは終始、彼らと目を合わせることもなく、何も言葉を発することもなく相変わらずの無表情を崩さない。それが彼の普段の姿だと分かってはいるものの、姉弟はやはり落ち着かず、疲労も忘れてそわそわとしていた。
皇帝はまだ眠気の残る顔で、画面に映し出された王城の様子を観察している。彼の向こう側には金の台座が設けられ、その上には忘れもしない、あの異様なほど巨大な剣が鎮座している。女性と見紛うほど美しい容姿を持つこの若き皇帝が、あの巨剣を軽々と自在に操るのは、何度考えても不可思議としか言いようがない。今日はあの刃で、ポーレジオン国王の首が斬り落とされるのだろうか。
約束の刻限まで、あと二刻。
早めの昼食を済ませたヴィクトールは、再び映像装置の前へ戻って来た。画面には絵画を貼り付けたかのように、何ひとつ動くものはない。せっかくの映像技術が無駄になっている、と彼は感じた。
「そろそろ本格的な準備に取り掛からないと、失礼に当たるな」
ヴィクトールはアルベールに目配せを送った。騎士将軍はさらに部下に指示を下す。前回のマリプレーシュも、今回のポーレジオン作戦も、本当にわずかな兵力しか率いてこなかったのだが、それでも暇を持て余してしまう程、彼らは有能であった。
さて、ここに座っていても退屈なだけだ。そろそろ自分も体裁を整えよう。ヴィクトールは一息つくと立ち上がった。……と、画面の中で何かが動いたような気がした。
向き直り、画面を凝視する。城の扉から数人の兵らしき男たちが出てきた。そして彼らに囲まれるように、中年の卑屈そうな男が姿を現す。……拷問王として国中に悪名を轟かせる、ポーレジオン国王だ。
国王はなぜか帝国の仕掛けた映像装置の存在を知っているらしく、ゆっくりとこちらを向くと、両手を大きく広げた。その手に武器と呼べるものは何ひとつ握られていない。
「……降伏か」
ヴィクトールは嘲る。その言葉には僅かに、失望の色が滲んでいた。
どうしてこの映像装置の存在を知ったのだろう。その点が少し気になってはいたが、彼は画面から目を離さずに、斜め後ろに控えるアルベールに出陣取り消しの合図を送ろうとした…その刹那。
画面が、砂嵐に呑まれた。
何が起きたのかと、技師に問いかけようと振り向いたその時。
爆音と悲鳴が響き渡った。画面の中のポーレジオン城ではない。……まさにこの、拠点と定めた建物の内部で。
そこに居合わせた者たちは一瞬、呆然と立ち尽くした。だが騎士たちはすぐさま音のした方角へと駆け出す。その間にも轟音と悲鳴は次々と、あらゆる場所で立ち上ってくる。
「市民の暴動……？」
ヴィクトールは信じ難いという表情で呟く。……が、すぐにそうではないことに気づく。規模が大きすぎる。飛翔船の轟音が聞こえてくる。時機が、でき過ぎている。
「……ポーレジオン国王め、謀ったか」
炎は一瞬、氷のような紅蓮で一面の嵐と化した画面を睨みつけたが……すぐにそれを、不敵な笑みに変える。
「失礼なことに、少し相手を甘く見ていたようだ。やる気があるなら応えてやらないとな」
台の上の巨大な剣の柄を握り、部屋の外へと歩み出す。アルベールや残る近衛騎士たちも、その後に続いて部屋を後にした。
……部屋には、檻の中の三人だけが取り残される。迫り来る轟音に為す術もなく、焦燥感だけが募っていく。
「冗談じゃない……こんな場所で、意味も分からずに無様に死ぬなんて御免だ！」
シーマが鉄格子に掴みかかったその時、部屋の扉が開いた。誰かが戻ってきたのか……だが、その人物は見知らぬ軍服に身を包んだ兵士だった。彼は何故か檻の鍵を手にしている。
「ご心配なく！今、解放しますからね」
カシャリと音を立てて、檻の扉が開く。呆然とする三人に謎の兵士は急ぐようにと促し、先導して部屋の外へと向かう。外にはひとりの帝国騎士が倒れている。確か檻の鍵を管理していた者だ。……この見知らぬ服の兵が伸したのだろうか。
彼に急き立てられるまま、三人は狭い通路を走り、走り、通算五つめの扉を駆け抜ける。突然、強烈な刺激が瞳を襲った。三日振りに浴びる太陽の光。だが、すぐに轟音と共に大きな影が三人を覆う。上空に現れたのは、一機の巨大な飛翔船だった。
「シーマ、あれ……！」
エマは低空飛行する船体を指差した。その側面には、見覚えのある、獅子と龍が向かい合う紋章が描かれていた。……そして次の瞬間、甲板の先にひとりの人物が姿を現した。三人を見つけて、手を振りながら精悍に微笑み、親指を立てている。
その姿に三人は仰天し……そして、歓喜に胸を躍らせずにはいられなかった。
何故だ。
何故、あの紋章がここにある。……忘れもしない、忘れるはずがない、獅子と龍の絡み合った下品な紋章。少しばかり前まで、自分の城の中にあれがが蔓延っていたのだ。
「エクラヴワが、何故……」
ヴィクトールは愕然とした表情で立ち尽くした。器量の狭いエクラヴワ大王がこんな小国のために動くなど、絶対にありえないと確信していた。断じて、あり得ない。
「皇帝陛下、お急ぎに……！」
アルベールが身分で彼を呼び、急かす。周囲の住民は既に避難させたのだろうか、相手は容赦なく攻撃を仕掛けてくる。小型の船が一隻のようだが、このまま呆然としていては、やられてしまう勢いだ。
ヴィクトールは気を引き締めると、アルベールをはじめとする騎士たちに命を下した。
「応戦を。必ず、あの船を墜とせ！」
小隊の隊長たちが、騎士将軍の合図を受けて散っていく。たちまち指令が伝わり、街のあちこちに隠れ待機していた砲撃隊の拠点から爆煙が上がった。本来なら全て、ポーレジオン王城へ向けられるはずだった攻撃だ。
それぞれの小隊から騎士たちが一斉に飛び出す。船から下りてきた敵側からも同じように兵士が迫り出し、剣を交え、火花が散る。
高台の上まで押し寄せてきた敵軍を相手に、アルベールは自ら剣を振るいながら、エクラヴワの紋章の描かれた戦艦の甲板の先頭を見やる。この軍を率いる将を確認しようとしたのだ。……だが、そこに立つ人物は服装も軍人のそれとは違い、何よりその姿に確かな見覚えがあった。
「あれは、エクラヴワの……」
間違いない。最近まで年に数回、あの栗色の髪の青年を目にしていた。エクラヴワ大王家の三王子のうち、末の王子だ。アルベールはヴィクトールに知らせようと、敵を薙ぎ倒しながら君主へ駆け寄る。だが彼も既にそれに気付いているのであろう、強張った表情でエクラヴワの戦艦を見据えていた。
（エクラヴワの大王家自らが、動き出しただと……？）
他者ばかりを動かして、自らは高慢に一か所に居座り続ける、あの怠惰なエクラヴワ大王が。憎悪が有り余るばかりに、逆説的に大王をよく知るヴィクトールにとっては全く予想外の展開だった。……いや。
「……第三王子か。あれか……」
大王国の中でも異質な存在だ。奴なら大王ロドルフの意図とは異なる行動を取りかねないと、ヴィクトールは顔をしかめた。……牢の鼠が何かを頼っていたようだが、奴のことだったのか。
だが、それならばこのまま応戦しても無意味だと悟り、大剣を背に納める。
「ローラン元帥」彼はアルベールを配下として呼んだ。「軍に攻撃を一時停止するように伝えろ。それと……敵方には、話し合いの機会を与えてやるとな」
未だ指令が行き渡っていない地上では、刃と刃のぶつかり合う音が絶えない。
現時点では互角の戦いを繰り広げているが……ごく僅かな兵力しか率いてきていない帝国軍に対し、こちらにはいざとなれば、先ほど相手に警戒心を抱かせるためにやむを得ず数発撃った戦艦の砲がまだ残っている。この状況下では、本気になればすぐにでも帝国軍を圧倒できるだろう。住民を避難させたとはいえ、街を破壊し続けるのは忍びないが、相手が退くまでは攻撃を継続するしかない。
ただ、帝国兵たちは密かに厳しい鍛錬を積んで来たのか、その腕前は確かものであった。対する自軍の兵士たちは瞬発力に優れているものの、長期戦に耐えうる持久力に欠けている。今回の為にレオナールが急遽寄せ集めた軍勢であるという事実に加え、永年にわたり世界の頂点に立ってきた安心感が、エクラヴワの兵士たちにも油断を生んでいるのだ。
「このままじゃキリがねえどころか、こっちも向こうも壊滅しちまう…」
レオナールは焦燥感に駆られた。決して相手を徹底的に叩きのめしたいわけではないのに、無意味な戦闘を続けることにも疑問を感じていた。何とか対話の場を設けたい……そのためには、自分が皇帝に直に接触する必要がある。彼は振り返ると、地上に見える軍長に向かって、船の機動音に掻き消されないよう、声を張り上げた。
「おい！兵士を引かせて、オレが皇帝と直談判する！全軍と相手側に、伝えてくれ！」
「は！」
軍長が手を上げようとしたその時、ひとりの伝令が駆け込んで来た。……両者の意向は、予想外なほど容易く疎通する事ができたようだ。
（そりゃ、通じるはずだ。相手は……）
レオナールはその顔を思い浮かべるが、そうすればするほど、この事態を起こした者とその印象が一致せずに困惑してしまう。……夢でも見ているのではないかと、未だに半信半疑なのだった。
やがて絶え間なく響いていた金属音が止んだのを合図に、レオナールは自らが搭乗するこの飛翔船を、すでに相手の船の停泊している町外れの広場へ着陸させた。
「……」
甲板から地上へ降りるための階段が設置されるのを、彼は緊張に身を硬くしながら見つめる。恐怖の対象として人々が怖れるようになってしまった『炎』、グランフェルテ七世は……しかしレオナールにとって初対面ではなく、ましてやこのような感覚を憶えなければならない相手ではなかったはずだ。
階段を一歩一歩踏みしめながら、彼は向こう側の軍勢の中央からも進み出てくるその姿を見つける。膝の丈まであろうかという、真っ直ぐな紅蓮の髪。後ろでひとつに束ねているとはいえ、風になびく鮮明な紅は、否が応でも目に飛び込んでくる。……だがレオナールの知っているはずのその人物が纏っていた空気とは、がらりと豹変したものを放っている。
先に口火を切ったのは、相手の方だった。
「久しいな。前に会ったのは半年前だったか。………次がこんな形になるとは、思ってもみなかったが」
「ああ……」
レオナールは戸惑う。人違いであったなら、随分と気が楽になるのに……話し方は全く違うものの、その声は紛れもなく、よく知っているものである。
何故、こんなに変わってしまったのか。何故、こんな事をするのか。
「どうして……」
いつもはすらすらと溢れ出る言葉が、喉に詰まって出てこない。レオナールは必死に感情を押し殺そうと努めた。
「こんな争い、無意味だ。もうやめてくれ……」
「ふうん。自分から先に爆撃しておいてか？」
相手は呆れたように嘲笑を浮かべる。……こんな風に笑う奴ではなかったのに。マリプレーシュの時に間に合っていれば、彼の食い止められていただろうか、とレオナールは唇を噛みしめる。
「その……そっちが、ウチのヤツらに酷え目に合わされてんのは、前から言ってるように良く分かってる。これからはオレももっとマジメに、オヤジに掛け合ってみる、だから……」
彼は戸惑いながらも、懸命に説得を試みようとしたが……その紅蓮の瞳は、彼の背後に控える緑色の船体に向けられた。
「この船を差し向けたのは、大王の指示ではないのか？」
「違う、オレが勝手にやったコトだ。オヤジにはまだ話は通してない、けど……」
「そうか……」
ヴィクトールはそう呟くと、形ばかりはエクラヴワの船を、改めて見つめた。やはり大王には今なお、動く気はないようだ。
「そうか」
彼は同じ言葉を繰り返す。同時に不敵な笑みを浮かべるが……だが彼はすぐにそれを消した。彫刻のように整った無表情は、気迫を倍増させていた。
何も言わずに、右腕一本で、以前の印象からはそんなものを持ち出すとは信じがたいほどの大剣を背中から取り出し、構える。
「おい……おい、違う！オレはおめえと戦うために、ここへ降りてきたんじゃねえ！！」
「知ったことか。邪魔者は消す」
次の瞬間、巨大な光の閃きが顔の横を縦に通過した。栗色の髪が辺りをはらはらと舞う。
……やるしかないのか。
レオナールはやむなく、自分の曲刀を抜いて、握りしめる。できることなら、相手を傷つけたくはない。
あれほど親しくなろうとして、何回も言葉を交わそうとして……たとえ、一方的にであったとしても……その思いを共有しようと試みた相手を斬るのは、心が痛んだ。
迫り来る大きな刃を、あまりにも細い自らの剣で何とか受け止めるたび、全身に衝撃が走る。
（こんなに強かったのかよ……！）
この様子では相手にとっては、お遊び程度のものでしかないだろう。レオナールは焦りを隠せない。
「おい、やめろ！もう一度、話し合いを……」
レオナールがそう言いかけた時……遠方で、爆音のようなものが聞こえた。
「ポーレジオンの城が……！？」
上へと立ち昇る黒煙を見て戸惑うレオナールの顔に剣先を突き付けたまま、炎は告げる。
「王の降伏宣言を聞いた憶えはない。約束の時が来たから、約束通りにさせてもらっただけだ」
……何ということだ。帝国は拠点の奇襲攻撃に応戦しながらも、本来の標的に対する準備も怠ってはいなかった。唖然とするばかりのレオナールを見て、グランフェルテ皇帝は大剣を降ろした。
「心配なら、行ってやったらどうだ？今頃はもう、王様は口が利けない状態になっていると思うけどな」
片手の指先を揃えて自分の方に向け、横に振る。首を斬り落とす仕草だ。
「仕事が早いんでな、うちは」
「！……」
レオナールは立ち尽くした。
また、繰り返してしまった。
自分に対する悔しさを隠しきれない。だが……無力な自分に、この場でこれ以上できることも、残されていない。
彼は曲刀を鞘に収め、紅に背を向けて、退却命令を出すしかなかった――。
