【I-002】運命の子

 森の中にひっそりと建てられた小さな家。それは「小屋」という言葉がふさわしいほど質素なものだった。

 それまでイザベルが住んでいた城と比べれば、比較にならないほど狭い。下僕扱いされていたとはいえ、かつては絹のドレスを身に纏い、静かな室内で豊かな食事を享受していた。その生活から一転した暮らしに慣れるまでには、相応の苦労があった。

 だが……イザベルはここで、かつてないほど幸せな日々を送ることとなる。

 勿論、そう思えるようになったのは、ここに来た当初からではなかった。国外追放が決まり、絶望が心を支配してからは、死ぬことばかりを考えて過ごしていた。

 ……長旅の末、ある夜明けに罪人を乗せる船が辿り着いたのはひと気のない海岸で、目の前には鬱蒼とした森が広がっていた。彼女をここまで連れてきたのは酷く見窄らしい格好の、しかし男と見紛うほど屈強な体格の民兵らしき女であった。男性の見張りでは、イザベルの美貌によって問題が起こることが危惧されたのであろう。ともかくその女傭兵はこの数カ月間イザベルと殆ど会話する事はないまま、森の奥へ彼女の華奢な身体を乱暴に引き摺ってゆくと、遂には、その場で急ごしらえされたようなこの小屋へ無理やり押し込んだのだった。

 女傭兵の足音が遠ざかった後、丸一日が経過しても、イザベルは何をすべきか判断がつかず、ただ暗闇の中で呆然と立ち尽くしていた。小屋の中には最低限の食料や生活必需品が蓄えられ、直ちに飢える心配はなかった。

 だが、生きる手段が手元にあるからこそ……突き付けられた現実を悟ると共に、様々な感情が彼女を襲い始めた。愛する騎士フェルディナンを失った深い悲しみ、不貞の罪により祖先から引き継いだ国を追われた慚愧。あふれる愛情で大切に育ててくれた両親へ、何も出来ぬこの身を愛してくれた国民への申し訳なさ、そして何より、愛する娘ディアーヌとの別離がもたらす絶望感。これらの感情が夜ごとの悪夢を引き起こした。

 そして……あの旅先で、運命的に出会ってしまったひとりの男との間に子を宿していることも、彼女を苦しめた。この見知らぬ地でひとりで生活し、出産することができたとしても……その子をディアーヌのように愛し、育てる自信が持てなかった。

 ……腹の中の子は、おそらく異形の姿で生まれてくる。

 母親でさえ愛することができない子に、この世に生を受けさせるのは酷である。そう思い至り、彼女は赤ん坊を連れてこの世を去る決意を固めた。

 その決意を胸に、夕暮れ時に小屋の裏手から聞こえる水音に引かれて斜面を登り、高い崖の縁に立った。しかし、濁流を眺めると予想以上の恐怖に足がすくんでしまう。

 そこに生える細い木に必死で掴まり、一歩踏み出す勇気を出せずにいたザベルであったが……足元から転がり落ちて無慈悲な流れに呑み込まれてゆく小石に続こうと、ようやく決心し右足を浮かせようとした瞬間。

  「何してんの!やめなさいあんた……!!」

 突如、後ろから誰かに抱き締められるようにして、身体ごと激流の反対方向へ視界が反転された。勢い余って、自分を抱えた人物と共に草むらの斜面へ転がり込む。イザベルはこの辺りには人の存在などないと思い込んでいたので、身が平地にたどり着いてやっと止まると、ただ驚き、その人物を見上げた。

 ……イザベルの目の前に現れたのは、彼女と同じくらいの年頃の女性だった。そばかすが散りばめられた、親しみやすさを感じさせる丸顔。全身をすっかりと草と泥塗れにしたその女性の方もイザベルの顔を見て、驚きを隠せない様子だった。

 「はあー……なんて綺麗な顔をしてるの……」

 彼女はをよっこいしょと立ち上がって掌についた土を払った。次いで、イザベルを助け起こすと、彼女の髪から優しく草を取り除く。

 「その顔でどうして辛い事があるんだい。……しかも、お腹には……」

 女性はイザベルの少し膨らんだ腹部を見て、心配そうに言葉を続けた。

 「……なおさら、駄目じゃない。あっ、今ので何かあったら大変。抱えて行ってやるからほら、捕まって!」

 サラと名乗るこの女性は、イザベルを小屋から更に奥にある自宅へと案内した。サラは、夫のユーグと共に、この森で二人だけの暮らしをしているという。イザベルは、彼女自身の運命と同じく複雑な背景を持つサラ夫妻の話に、新たな驚きを隠せなかった。

 偶然なのか、それとも彼女を追放した者に何かの意図があるのか。……この森はあの時、イザベルが休息の旅に訪れたミリエランスという大国の端に存在する樹海なのだという。地図上ではグランフェルテから内海を挟んで遥かに遠く、世界を牛耳るエクラヴワ大王国にほど近い場所であった。

 サラとユーグは、かつてはミリエランスの城下町で豊かな生活を送っていた。夫婦の間にはまだ歩き出したばかりのひとり息子がいたが……ある日、エクラヴワ大王のミリエランス視察の列の前に飛び出してしまい、無慈悲にもその場で処刑されたのだという。実は夫婦がこの森に隠れ住まねばならなくなったのも、その為であった。

 明るい人柄の裏にそのような過去を背負うサラとユーグだが、彼らはイザベルの身分や彼女が抱える複雑な状況を理解し、温かく受け入れてくれた。命を絶ちたいと願うイザベルに、どんな姿の子であろうと、母親がその子を愛せない訳がないと説得し、彼女を思い留まらせた。

 逞しいユーグは忙しい自分の仕事の合間に、自分たちの家のほど近くに、小さいながら彼女と子供の家を建て直してくれた。それからも夫妻は、人前に姿を見せる事の出来ないイザベルの世話を、ずっと引き受けてくれる事となるのである。

 半年が過ぎ、サラの手厚い支援のもと、イザベルは男の子を出産した。

 彼女が予想していたように……赤ん坊は普通の人間とは異なる特徴を備えていた。肌は色素を欠いているかのように白く……まだ産毛であるその髪と、そして初めて目を開いた瞬間に明らかになったその瞳は。

 父親譲りの、真紅の色であった。

 しかし、息子はそれ以上にイザベルが心配していたような恐ろしい姿に変わってゆくことはなかった。日が経つにつれて、陶器製の人形のようにも見えた容姿には愛嬌が宿り、徐々に自分に似てくるようで……なんと彼女は息子を愛せないどころか、狂おしいほどの愛おしさでたまらなくなっていった。

 ……だが、この姿にして、生まれながらにして立たされたのはこの環境である。我が子に予想も出来ぬような苦しい運命が待ち受けている事に違いはない。

 できることなら、この森の中で、静かに、目の届く範囲で息子を育て上げたいとイザベルは考えていた。しかしディアーヌの時と同じように未来は予測不可能で、どんな不測の事態が母子を引き裂かぬとも限らない。

 たとえ、どんなに辛く困難な課題が立ちはだかろうとも。

 自分のように、運命に翻弄される事のないように……全ての起こり得る出来事に打ち勝つ強さを持って欲しい。

 イザベルはそんな願いを込めて、我が子に、勝利の神にちなんだ名を……ヴィクトールという名を授けた。

 それから数年が経ち、相変わらずイザベルは息子と身を潜める日々ながら、また城に残してきた娘のことを常に案じながらも……今まで感じたことのないほど充実した生活を送っていた。

 息子のヴィクトールは、サラによれば「まるで妖精のお姫様みたい」に形容されるほど、愛らしい姿へと育っていった。透き通るような白い肌に、穂先につけた紅を一滴溶かして馴染ませたような頬、そこにふわりとかかる髪は柘榴の実で染めた絹糸のようで、不思議な事にところどころ母から受け継いだ蜂蜜色の筋が流れている。彼の大きな瞳は、窓から見える森のあらゆるものに興味津々で、この世に二つとない紅玉のように輝いていた。そして……彼の醸し出す空気は母親のイザベルでさえも軽々しく穢してはならないと思えるほど、どこか高尚な神秘性を放っていた。

 だが好奇心旺盛な彼は、ディアーヌとは異なり、与えられた玩具だけで満足して遊んでいることは少なかった。四つん這いを始める頃になると、ちょろちょろといつの間にか母親の目の届かぬ場所まで移動して悪戯をしているのである。

 ある日、まだまだ慣れぬ夕食の支度に手間取っていたイザベルは、つい息子から少しばかり目を離してしまっていた。……そして、ポンポンと奇妙な、小さな爆発音のようなものが聞こえて来たのに気付いて、慌ててヴィクトールの姿を探した。

 (何の音かしら……?)

 食卓の陰に柔らかい紅色の頭髪を揺らす小さな息子の背を見つけながら、音の正体に見当をつけようとするが、判らない。……僅かに焦げ臭い匂いが鼻をつき、まだ調理台では火を使っていない筈だと横目で確認をしつつ、息子に近寄る足を急がせる。火打ち石のような危険なものは、彼の手の届かぬ場所へしまい込んだはずであるが……。

 「ヴィクトール、何をしているの?」

 覆い被さるように、彼女は床に座っている息子の前へ回り込んだ。彼はきゃっきゃと可愛らしく笑いながら、イザベルが手作りした積み木で遊んでいたようなのだが……そこには、火打ち石やそれに準ずるものはない。焦げ臭さの元はここではないのか。安堵と、原因を探さなければと新たな不安を過ぎらせた母の顔を見つけると、ヴィクトールはまた喜んだような声を出す。そして……得意げな表情すら見せながら、木の葉より小さな両手をぱっと目の前の積み木へかざすような仕草をした。

 ……ポン!

 「……え?」

 ……音とともに、積み木が弾けた。

 何かの錯覚かと母がきょとんとしていると、その表情が面白かったのか、またヴィクトールはきゃははと笑って積み木へ掌を向け、ちょうど木の実を鍋で炙っている時のように積み木を弾けさせた。……焦げた匂いはこの積み木から漂っていたのだ。

 (これは……魔術?)

 また前に突き出された息子の両手を思わず強く捕まえてその行為を止めてしまいながら、イザベルは戸惑った。

 ……こんな赤子が魔術を?

 イザベルは魔術には縁遠い。が、魔術を使うためには呪文を唱えたり、杖などの媒体を通さなければならず、それが幾年も厳しい修行を積んだ魔術師以外には不可能であることくらいは知っている。

 ……それでも、今見たものが真実なのだとすれば……やはり。

 やがて歩くことを覚えたヴィクトールは、家の中に閉じこもっているのを好まなかった。ゆえにイザベルは彼女やサラ夫妻の目の届く範囲であれば、息子を外で遊ばせても大丈夫だろうと、彼とともに散歩に出る事もたまにあった。

 そのようになるとイザベルはまた、ある事に気が付いた。ヴィクトールが野生の兎や小鳥に近寄って遊んでいると、次から次へと動物達が彼の周りに集まってくるのである。そして不思議な事にヴィクトールはその動物達と話をしているかのように、意思の疎通を図っていたのだ。

 「ヴィクトール、鳥さんと何をお話ししているの?」

 息子との会話が成立するようになったある日、イザベルはその隣に屈んでそう問い掛けた。普段、イザベルが近づくと小鳥たちはすぐに飛び去ってしまう。しかし不思議なことに、ヴィクトールの側では安心しているかのように、彼らはその周りに留まっているのだ。

 「今ね、あのおっきい木の下にあるきれいな石を、この鳥さんのお友だちにもってきてもらう”やくそく”をしてるの」

 幼い息子は大きな真紅の瞳を輝かせ、木々の合間の遥か向こうに見える大樹を指差しつつ、母にそう舌足らずな言葉ながら語る。確かにあの根元では、樹から滴る樹液と毎日の朝露とが混ざり合って出来上がる鉱石が採れることがある。稀にしか作られないので、サラはそれを『星の雫石』と呼び、ユーグが街へ運ぶ薪の荷台に自分の繕い物と共に載せて生活の足しにしているのだ。それをイザベルも知ってはいたが、ヴィクトールにはまだその話をしていない筈だ。

 「サラおばちゃんが、そう教えてくれたのね?」

 「ううん、鳥さんが言ってるの。それでね、今もってきてくれるのを待ってるんだ」

 イザベルは微笑んだ。息子の話に付き合ってもう少しここにいたかったが、そろそろ陽が沈む時刻だ。

 「ヴィクトール、せっかくだけど、遊ぶのはまた明日にしましょう。暗くなっちゃうわ」

 彼女が息子の手を引いて立ち上がろうとすると、彼はぷうっと頬を膨らませて、懸命に首を横に振った。

 「……お願いよ。お母さんの言う事、聞いてちょうだい」

 「やだ!鳥さんとやくそくしたもん!待ってるんだもん」

 イザベルは仕方なく無理にでもヴィクトールを抱き上げて帰ろうとしたが、彼は紅玉からぽろぽろと涙を溢しながら母親に駄々をこね、その胸を叩き始めた。……息子は機嫌の良い時は驚くほど素直なのだが、ディアーヌに比べると感情の起伏がとても激しく、イザベルはしばしば振り回される事がある。反抗期と言ってしまえばそれまでなのだが……この時もどうしたものかと困り果てて、ふと夕焼け空に視線を投げた。

 その時。

 「あ……」

 イザベルは驚いて、その光景に目を奪われた。……数羽の鳥が群れでこちらに飛んでくる。そして先頭の鳥のくちばしには……七色の彩りを光らせる鉱石、『星の雫石』が確かに咥えられていた。

 「帰ってきた!おかあさん、おろして!」

 悲しみの感情を一瞬で忘れてしまったのか、はしゃぐ息子を腕から下ろしてやると、鳥は彼の小さな手の中に宝石を大事そうに渡した。

 「ちゃんと鳥さん持ってきてくれたでしょ。だって、やくそくしたんだから!」

 おかあさんにあげるねと言って、彼は今鳥から受け取ったばかりの石を、いまだ興奮冷めやらぬといった表情のままで嬉しそうにイザベルに差し出した。

 「……ありがとう、ヴィクトール」

 受け取りながら、彼女は複雑な思いを抱く。この子にはやはり……外見的な特徴のみでなく、驚異的な能力が生まれながらに備わっている。

 だが、それは決して単に喜ばしいことではなく……これからこの子が育ってゆく上で、ますます様々な試練を与えられる切っ掛けになってしまうに違いない。

 彼女は動物たちに別れを告げる息子をしっかりと守るように再び抱きかかえ、家路についた。

 それからもヴィクトールは、ユーグが仕事で運ぶ薪を、木の陰に隠れて動かして悪戯してみたり、サラやイザベルが繕い物で怪我をすると手を当てて治してくれたりと、通常では考え難い不思議な能力で驚かせてくる事がたびたびあった。しかしながらも、イザベルが心配するようなことは幸いにして何事も起こらず……暖かな木漏れ日に包まれた数年の日々は、あっという間に過ぎ去っていったのだった。

 そしてヴィクトールはいよいよ、五歳の誕生日を迎えようとしていた。イザベルは翌日に控えるささやかな祝いの準備をする間、サラに彼を預けて散歩に出してもらっていた。

 夕刻に差し掛かる頃、キイと木製の扉が軋む音を聞いて、彼女は小麦粉を練る手を止めて玄関の方を覗いた。幼い息子が、彼にとっては非常に重たいであろう扉を懸命に家の中へ押し開こうとしている。イザベルは軽く手を濯ぐと、愛しい息子の所へ駆け寄り微笑みながらそれを開けるのを手伝ってやった。

 「おかあさん、ただいま」

 「お帰りなさい。ひとりでどうしたの。サラおばちゃんと離れちゃ駄目って言ったでしょう」

 サラにはいつも万一に備え、家まで息子を送り届けてもらうように頼んでいるが、腕白盛りのヴィクトールはよくひとりで勝手に行動してしまう事もあり、この日もそうなのだとイザベルは思っていた。

 「お母さんの言うことちゃんと聞かないと、明日のお誕生日はお祝いしてあげないわよ?」

 彼女が穏やかな表情ながらもヴィクトールを戒めると、幼い息子はぶんぶんと首を横に振った。

 「ちがうもん。ぼく、ちゃんとおばちゃんと手をつないでたんだけど……」

 息子の上目遣いの言い訳に、イザベルは少し呆れながらも、口元を綻ばせる。……だが彼が次に紡いだ言葉に、彼女はその笑顔を消さざるを得なかった。

 「……知らないおじちゃんたちが、木の向こうにいて……ずっとこっちを見てたの。それでね、サラおばちゃんにご用があるから、ぼくにひとりでおうちにかえりなさいって……」

 イザベルは聞いているうちに、背筋に悪寒が走るのを感じた。……ヴィクトールがみなまでを説明する前に、彼女は無意識に息子の身体を決死の思いで抱き上げていた。

 

 ――この子の身を……隠さなければ。

 

 突然切迫した母の表情に困惑し、恐れてしがみついてくるヴィクトールを強く抱き締めたまま……彼女はおろおろと狭い家の中を見回す。

 ……が、時は既に遅かった。

 錠をかけることすら出来なかった木製の扉を叩く事もなく、数人の屈強な、軍服姿の男達がどかどかと玄関から踏み入れて来た。

 「あなた達は……!」

 イザベルは緑色のこの出で立ちに見覚えがある。……もう二度と見たくもなかった、エクラヴワ兵士のそれであった。

 無言で圧力をかけて来る兵士達の間から、ひとりの禿げ上がった恰幅の良い男が進み出て来た。……エクラヴワ大王国の外交官であり、支配下のグランフェルテにおいて、イザベルがまだ女帝であった頃から摂政のひとりを務めていたデジレという男である。

 「イザベル殿、お久しぶりですな……」

  デジレは独特の厭らしい笑みを浮かべ……その視線をイザベルの腕に抱かれた真紅の少年へと移した。

 「ほう、皇太子殿下はお噂通り、珍しいお姿をしていらっしゃる……」

 「何の事!」イザベルは無意識に息子をデジレから遠ざけるように、後退りをする。「皇太子……?ヴィクトールは、グランフェルテ帝国とも……あなた達エクラヴワ大王国とも、関係がありません!」

 「そうかそうか、ヴィクトール様と仰るのか。母上様、規定をちゃんとお読みになっていなかったのですかな?……あなたは追放された身でも、あなたのご子息に帝位継承権がないとは決められておりませんぞ」

 デジレの台詞を聞いて、イザベルは呆気に取られてしまった。幼いディアーヌは即位しないと考えていたので、彼女は帝国を去る際に、従弟のジルベールに後の事を託してきた筈であった。しかしその後、彼が帝位を継いだという話もなく、グランフェルテ帝国では皇帝不在という事態が続いていると聞いていた為、不可解、そして不気味であるとは思っていたのだが……。

 「さて、時間がない。皇太子殿下をお渡し願えませんかな」

 手を伸ばすデジレからイザベルはさらに数歩引き、彼を睨みつけた。だが掘っ立て小屋にユーグが若干の手を加えただけの小さな家の中……どこにも逃げ場はない。事態を理解できないヴィクトールはただ真紅の瞳を見開き、母の首筋にぎゅっと抱きついて怯えている。

 「出て行って……」か弱いイザベルには震える声で彼らを追い払おうとするのが精一杯だった。「私の命に代えても、息子は渡しません……!!」

 「あなたの命などいらぬ!」

 デジレが声を張り上げた次の瞬間、兵士達が一斉にイザベルを取り囲んだ。そして……必死で抵抗する彼女の腕から、ヴィクトールを奪い取るように抱きかかえる。

 「おかあさん!!」

 男達と揉み合って床に頽れたイザベルの耳に、息子の悲痛な叫び声が突き刺さった。

 「やめて……やめて!!ヴィクトールを返して……!!」

 イザベルが縋りつこうとするも足蹴にされてしまう。兵士達はヴィクトールを乱暴に抱えたまま、家を出てゆこうとした。

 「いやだあ!!たすけて、たすけて!おかあさん……!!」

 「ヴィクトール……!!」

 何度も振り落とされ、それでも立ち上がって男達を追おうとするイザベルに、デジレは嫌気が差したような侮蔑の視線を注いだ。

 「ええい、しぶとい女だ。お前は追放された罪人なのだ。何であろうと権利を主張できる資格など、ない!」

 彼はイザベルの腹を思い切り蹴りつけた。イザベルは衝撃に倒れ、咳き込んだ。

 「や……やめて!やめてよ!!」兵士に抱えられたヴィクトールが藻掻きながら、叫ぶ。

 「おかあさんに……おかあさんに、何するんだっ――!!」

 ……その直後。

 ボンと、爆発音のようなものが響き渡った。

 「うわあっ!!」

 ヴィクトールを抱えていた兵士が、急に悲鳴を上げて暴れ出す。

 「あちっ、あちっ!!助けてくれえっ!!」

 デジレや周囲の兵が驚いて彼を見ると、何故だかその豪華ながら丈夫な筈の衛兵の軍服が燃え上がっている。

 「け……消せっ!これで叩けっ!!」

 デジレが玄関脇の棚に幾つか飾られていた、イザベルの手作りのクッションを放り投げ、兵士たちが慌てて燃えている同僚に向かってそれを叩きつけている。爆発の際に床へと放り出されたヴィクトールはその痛みに嘆く暇も忘れ、倒れて呻いている母の元へ懸命に駆け寄ろうとした……が。

 「待てっ!!」

 屈強な兵士に真紅の髪を引っ張られ、それは再び阻害された。彼は……まだこの時はこの乱暴な不審者たちを懲らしめようとした訳でもない、大切な母を守ろうとした訳でもない。ただ……ただ恐怖と混乱に怯える無意識のうちに、その小さな手を今度は、男たちに向かって翳したのだった。

 その時。

 「ううっ……!」

 美しく可憐な幼子の顔は、苦痛に歪んだ。……太腿にそれまで経験したこともなかったほどの強烈な痛みを感じて、立っていられなくなった彼はそのまま転び、そこをデジレに再び掴み抱えられる。そして目の前に……血に濡れた、ぎらりと不気味に光るものを突きつけられた。

 「や……やめて!!お願い、やめてっ!!」

 朦朧としながらも必死に訴えるイザベルに一瞥をくれると、デジレはヴィクトールの耳元で低く囁いた。

 「……魔法か。それも通常の魔術ではないようだな……その力をもう一度使ってみろ。今度はこの短剣を、脚ではなく腹に、そしてお前の母親の背に突き立ててやる」

 頬に当たる、冷たい感触。……ヴィクトールはその言葉に、恐怖に、もはや抵抗するどころか身動きする術までを失ってしまった。

 「……火は消えたか?予想より手間取ってしまった。急いで戻ることにするぞ」

 デジレが言うと、兵士たちは敬礼し幼い皇太子の体をデジレから譲り受け、固く抱えては扉の外へ出てゆこうとする。

 「たすけて……」ヴィクトールはただ大粒の涙を流し、震える声で、訴える。「やめてよ……いやだ、いやだ!!おかあさん!おかあさああんっ――!!」

 

 ヴィクトールの泣き叫ぶ声がだんだんと遠くなってゆく。……イザベルは薄れる意識と溢れる涙にゆらめく視界の中、もはや愛しい息子の姿さえはっきりと捉える事ができなくなった。

 (ヴィクトール……!)

 奴隷国の姫君として生まれ物心ついて以来、彼女は何度も何度も、言葉にすることすら悍ましいほどの屈辱的な体験を、大王国から強いられて来た。帝国を出る前はもはやそんな日常に麻痺し、腹さえ立たなくなって来てしまっていたのだが。

 

 今。この日。

 

 彼女は過去のどんな出来事よりも、大王国に激しい憎しみを抱いた。

 無力な自分をこの上なく恥じ、責め立てた。

 そして……。

 (ヴィクトール……ヴィクトール……!!ごめんなさい――)

 娘に続き、息子までもを……自分の手元から失ってしまった。

 深い悲しみと後悔、絶望感……そして子供たちへの哀れみに、イザベルは打ちひしがれたのだった。

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