イメルダの乗ってきたという船を見て、一同は息を呑んだ。……南の大陸からの長旅に耐えうる堅牢な船を想像していたものの、目の前に現れたのは一般的な豪華客船を凌駕する、まさに海上の宮殿と呼ぶにふさわしい存在だった。
「え、イメルダおめえ……何者なワケ?」
エクラヴワの王子であるレオナールだが、自らの立場を忘れて思わずそう尋ねてしまった。
「ん、アタシ?アタシのお父さんはね、アロナーダ城下町の市長なんだよ~」
まるで当たり前のことを言うかのように、この大柄で豪快な女性はそのように立場を明かした。世界屈指の繁栄を誇るアロナーダ王国の中枢、その城下町の市長のひとり娘。彼女の言葉が真実なら、この途方もない豪船の所有者であることも頷ける。イメルダは観光目的だけでこの巨大な船に何十人もの使用人を引き連れ、はるばるミリエランスまで来ていたのだ。
「彼のリカルドを誘ったんだけどさあ、仕事が忙しいって言うから~。一人で来たんだよ、つまんなくってさあ」
そう言いながらも、ここで新しい友達ができて嬉しいらしく、興奮に心踊らせる様子が伝わってくる。レオナールたちよりも少し年長者らしいのだが、その無邪気な態度には滑稽さすら感じられた。
ともかく、ミリエランスの港で異彩を放ちながら停泊しているこの船に、イメルダは一行を気さくに招き入れた。内部には贅を尽くした食堂、華やかな遊技場、広大な宴会場が点在し、まるで海上の都市のようだ。エマとリュックは、まるで夢の中にいるかのように、目の前の光景を半信半疑で眺めていた。
イメルダは一通り彼らを船内見学に案内し終えると、甲板に戻ってきた。そして楽しい時間が終わってしまうことを惜しむかのように、黒く太い眉を下げながら口を開いた。
「せっかく来たんだけど、つまんないから、そろそろ帰ろうと思っててさあ~。でもすーっごい長いんだよ、帰り道。ふた月くらいかかるわけよ~」
そこで彼女の視線は、まだ船体に感嘆の眼差しを向けるレオナールと、無関心を装うシーマを交互に捉えた。そして……突如として、彼女はふたりの間に割って入り、両者の腕を強引に掴んだので、彼らは驚いて彼女の顔を見た。
「お兄さんたち、すっごくハンサムじゃ~ん。一緒に旅したら、とっても楽しいと思うんだよねえ」
「え、俺は…?」
ジャンは後方で呆然と呟いた。エマとリュックも同様に困惑の表情を浮かべていたが、アナが毅然とした足取りでイメルダの前に歩み寄ってきて、黒い瞳をこれでもかというほど三角形にし、レオナールの腕を彼女の手から解放した。
「レオ、この人情報を持ってると思って付いてきたんでしょ?この様子じゃ役に立たないんだから、帰ろ」
「でも、おめえアロナーダの市長の娘なんだろ?」レオナールは興奮気味にイメルダを指差した。「すっげえ縁だと思わねえか?こいつと仲良くなりゃ、一気に色々進みそうだぜ」
シーマもイメルダの腕を自ら振りほどき、再び腕を組んで頷く。
「確かにな。ミリエランスは期待外れだったが、代わりになるほどの価値がある」
「でもよ、レオ……」
今度はジャンがやや困惑したように、髪とは違い地毛の茶色の太い眉を複雑に曲げる。そして懐からしわくちゃの地図を取り出し、レオナールとシーマの前に広げた。
「ここがアロナーダだろ。すっげえ遠いぜ?前回も前々回も、帝国が狙ったのはウチの大陸だ。それじゃ、次も……ってなった時、戻って来れねえんじゃねえか?」
それを受けてレオナールは、うーんと唸って考え込んでしまう。イメルダは会話の内容が理解できずに首を傾げていたが、そこへ船の使用人が慌ただしく駆け寄ってきた。
「お嬢様……」
使用人は切迫した様子でイメルダに何かを報告している。内容は明確には聞こえなかったが……レオナールの耳に『グランフェルテ』という単語だけが鮮明に飛び込んできた。
「えっ!?な、何だって!?」
彼が詳細を聞こうと一歩踏み出すと、機密事項を部外者に漏らすまいとしたのか、使用人は慌てて立ち去ってしまった。……対照的に、イメルダは緊張感のかけらも見せず、困惑したように唇に指を当てた。
「ごめ〜ん。やっぱ、なんか急いで帰んなきゃなんないみたい。よく分かんないけど、グランなんとかっていうのが来るんだって」
一同の顔に驚愕と緊張が走る。
「ま、マジか!?ちょ、ちょっと詳しく聞かせてくれ!」
「えー、一度聞いただけだし分かんないよ〜。せっかくだから、乗ってけば?」
イメルダはは混乱に乗じて再び乗船を勧めてくるが、レオナールは躊躇した。海路でアロナーダを目指すとなると、先ほどイメルダが言及したように長旅となる。帝国が最新型の飛翔船を使用している以上、到底間に合わないだろう。
そうやってレオナールがたまにしかしない真剣な表情で思案に耽っていると、イメルダは両手を組んで頬に寄せ、彼の顔を嬉しそうに覗き込んできた。
「やっだ〜、お兄さんやっぱりカッコいい!イメルダ、どうしても一緒に行きたいのぉ〜」
「レオ……」アナが再び彼の側に寄り、腕を掴んでイメルダから引き離した。「飛翔船で行こうよ。今の話が分かったら、もうこの人に関わる意味ないでしょ」
「そうだな」シーマもアナに同意する。「空路で北回りなら、半月あまりで到着できる。帝国がまだ出発していないのであれば、十分に間に合うはずだ」
「うーん……」
レオナールはまた考えた後、決意を固めてイメルダの顔を見た。
「よし、そうしよう。やっぱオレたち、この船には乗らねえ」
「えーっ……」
イメルダは肩を落とし、明らかに落胆の色を浮かべた。
「……けどイメルダ、おめえも一緒に来てくんねえか。オレたちアロナーダのこと何も分かんねえし、さっき言ったようにオレたちにとって、アロナーダとの縁ができるってのはすげえことなんだ」
「えっ!」
一転して目を輝かせるイメルダを、アナがまた睨み付ける。しかし本当に快適なこの船に乗らなくていいのかと尋ねるイメルダに対し、レオナールは照れくさそうに頭を掻いた。
「……実はさあ、オレ……ちょっと海の船ってニガテなんだよ。今こうやって止まってる船に乗ってるだけでも、ちょっと怖えし。そこにふた月も乗るなんて地獄だからよ……」
「え、そうだったのか……」と言ってアナとジャンが彼の顔を意外そうに見ると、後方で事態を見守っていたエマとリュックも、ようやく笑いどころを見つけたというように、遠慮気味にははっと声を出した。
イメルダだけを同行しても、彼女自身が言っているように、アロナーダの情勢はよく分からないだろう。彼女の使用人と護衛兵数人も一緒に乗せると、アクティリオンの緑色の飛翔船は北方へ向けて飛び立った。
「わあ!わあ!こっち方面に来るの初めて!もうミリエランス出たのかな!?」
イメルダは船窓から下界を覗き込み、興奮気味に両隣のエマとリュックの肩を叩きながら、はしゃいでいた。それが少し痛いと感じつつも、姉弟もその絶え間なく変化する景色を飽きることなく眺めていた。
「もうミリエランスを出発して三日が経ったから、ずいぶん北に行ったと思うのに……ずっと人が住んでいるのね」
エマが感嘆すると、リュックはまた得意げになって地図を取り出し、姉とイメルダに示した。
「ここから北はしばらく、大きな街が連なっているんですよ。特にもうすぐ見えてくるコネサンスっていう国は由緒正しい歴史があって、世界最大級の図書館があるそうなんです。行ってみたいなあ……」
……観光気分に浸る三人とは対照的に、レオナールやシーマは落ち着かない様子でそわそわとしていた。グランフェルテがアロナーダに来るという情報を得てから三日が経過したにもかかわらず、新たな展開は一切ない。
「……アイツ、今回は大々的に宣告しねえつもりなのかな……それとも……」
その情報自体、確かなものでなかった可能性もある。早まった判断をしてしまったのではないかという焦りも相まって、レオナールは苛立ちを隠せずにいた。ちょうどそこへ通りかかったイメルダの使用人……先日、グランフェルテ来訪の情報をもたらした初老の執事風の男性に、彼は食って掛かった。
「おい、てめえん家がもうすぐ帝国に攻められっかもしんねえんだぜ!?もう少し積極的に情報集めらんねえのかよ?」
ひいいと細い悲鳴を上げる執事に対し、やり場のない憤慨をぶつける組織の指導者を横目に、シーマは呆れのため息をついたが……その瞬間、ある違和感に気づく。
(……アロナーダほどの大国を、グランフェルテのような小国が攻め落とす……?)
いくら自軍の強さに自信があろうとも、そのような無謀に出るほど、あのグランフェルテ七世は愚かではないはずだ。……シーマはレオナールを執事から引き離すと、その疑問を伝えた。レオナールは意外そうな表情を浮かべ、それを会議にかけようと提案した。ただし念のため、さらに三日ほど様子を見てから仲間たちを広間に招集することにした。
「この話、これまでのように単純なものではなさそうだ。それに、あれほど派手に事前宣告をしていたはずのグランフェルテが、今回に関しては……まるで秘密裏に動いているかのように音沙汰がない」
シーマがそう言うと、ジャンは不気味そうに眉間にしわを刻み、隣のレオナールに身を寄せた。
「……じゃあ、俺たちもあんまり派手に動かねえ方がいいんじゃねえか?……余計なことしてまたシーマたちみてえにとっ捕まっちまったら、しょうがねえし」
「だからって、指咥えて見てるワケにいかねえ……」レオナールは机上に広げられた地図のアロナーダの名を睨みつけながら、思案を巡らせる。「とにかく向かうしかねえ。……でも、目立たねえようにする必要はあんな。このまま向こうがこっそり動いてる様子だったら、オレたちも今回は少人数で行く」
レオナールはジャンに向かって、「おめえの髪の毛はグランフェルテ七世に匹敵するくらい目立つから」と言って同行を却下した。そして、がっくりと項垂れる彼の対面に座るシーマに、一緒に動いてくれと依頼した。
船は北国の白い空を翔け抜け、船内へも伝わる極寒の空気に一同はしばし耐えた。そして海を越えると、今度は容赦のない日差しが照り付け、うだるような暑さに包まれた。
何とか体調を整え、気を引き締めたレオナールは、改めて窓外を覗き込んだ。火山だろうか……遠目からもごつごつとした岩が転がり、灼熱の恐ろしい雰囲気を醸し出しているのが見て取れる。そして、その先には黄金色の砂漠が広がっているのを確認した。
「……やっぱ、帝国からは何の宣告もねえ……世界のみんなが不気味だって怯えてやがる。親父は何か考えてんのかな……」
背後にシーマがいると思って振り向くと、そこには焦茶の髪をさっぱりとまとめた、爽やかな青年が立っていた。
「……誰だ、おめえは」
「からかうんじゃねえよ。……似合うだろ?」
少しはにかんだ様子で、慣れない髪を弄りながらそう言うのは、紛れもなくジャンである。桃色と黄色を逆立てた、よく見慣れた髪型から一気に変身した彼の姿に……思わず、レオナールは吹き出してしまう。
「はっはっは!似合う、似合う。やっぱおめえ、ホントはお坊っちゃんだな」
「うるせえ。……だってよ、レオがあんなこと言うから……」
ジャンは帝国に接触するとなれば、ようやくレオナールに本腰で協力できると張り切っていたのに……頭髪のせいで断られる羽目になったのだ。桃と黄の特徴的な髪型は、仲間内ではまるで彼の商標のような認識だったので、ジャン自身も随分と悩んだが……思い切って、アナに染め直してもらったのだという。
「だってよ、俺も帝国軍ってのを見てみてえんだよ。特にそのグランフェルテ七世って奴、レオはずっと追っかけてたろ。あんまりそいつの話ばっかするから、レオはよっぽどそいつが好きなんだって思って、気になっちまってよ……」
ジャンの言葉には、どこか嫉妬めいたものが感じられた。レオナールは可笑しそうに笑いながらも、彼を安心させるように親指を立てて見せた。
「分かったよ。じゃあ今回はオレとシーマ、それからジャン、おめえと……あとはイメルダで行こう。他のヤツらには、今回は待機してもらう」
そう言うとレオナールは再び窓の外に目を向けた。そして……突如、栗色の瞳に緊張感を漂わせる。
「……ジャン、シーマを呼んできてくれ。それと……船のスピード落とすように、技師に伝えてくんねえか」
結局シーマかよ、と呟きながらも、ジャンはそこを離れた。しばらくして船の機動音が低くなり、外の景色の動きも緩やかになると、レオナールは急いで甲板へ向かう階段を駆け上った。そこに設置された望遠鏡を覗いていると、ジャンがシーマを連れて戻ってきた。
「あれを見てくれ」
レオナールはシーマに望遠鏡を譲る。……既にアロナーダ国の領土に入っており、神秘的な形をした王城から少し離れた場所に小さなオアシスが見える。そこはどうやらアロナーダ軍の防衛詰所のようだが……アロナーダの数隻の飛翔船に紛れて、一隻だけわずかに様子の異なる茶色の船がある。
「……あの船が怪しいと?」
「おう。……当てずっぽうで言ってんじゃねえ。あの船の周りをウロチョロしてる技師みてえな連中……オレ、見たことがある」
それは……間違いなく、かねてからグランフェルテ皇帝がエクラヴワ城を訪問する際に、彼の乗る飛翔船の操縦や整備を行っていた者達が着ていたものだった。
「それならばやはり、帝国は今回、秘密裏で動いているということだ。あの存在を誇示するような白い船ではなく、あんな地味な船を使っているんだからな」
「くそ……アイツ、今度は一体何を企んでいやがる」
しかし、ただ気を揉んでいても事態は進展しない。レオナールは深呼吸をして気持ちを切り替えた。
「……こっちも作戦練る必要がある。イメルダを呼んできてくれ」
そう言うと、レオナールはその場で胡座をかく。そして既に懐に入れていたアロナーダ城下町の地図をそこに広げると、石を置いて固定した。