【I-003】少女と剣士

 彼女は、迷っていた。

 つい先日、十七歳の誕生日を迎えたばかりのエマは、化粧室の鏡の前で立ち尽くしていた。小袋から取り出した櫛で、肩まで届く淡い金茶色の髪を丁寧にとかしながら、ふと眉を寄せて小首を傾げる。彼女の顔は世間一般で言う“美人”というわけではないかもしれない。しかし、その可憐な碧翠色の瞳は、彼女の純真無垢な心を映し出しているかのようだった。

 「どうしようかな……」

 エマが暮らすのは、エクラヴワ大王国領内でも随一の賑わいを見せる流通都市、マリプレーシュ候国の城下町だ。ここは小国ながらも、世界を統べる大王国の城下町から真っ直ぐ南へと位置する重要な場所で、庶民の暮らす一番街は常に人通りで溢れている。

 そして、ここに並ぶ食堂は星の数ほどのものであった。しかし、それぞれの店には独自の個性が強く表れている。一部の店は経営者自らが客を整列させるほどの盛況ぶりを見せる一方で、眼の前の店では女将は眠気をこらえながら一日中、猫の世話をしている。あまり熱心でない従業員にとっては、後者の方が居心地は良いのかもしれない。

 エマ・オリヴィエの勤める店の主人は、猫の世話をしている事の方が多かったので、彼女自身の仕事にも比較的余裕があった。だからこそ彼女はこの朝から、仕事後に直帰するか、それとも先に弟、リュックを迎えに行くかで迷い続けていた。

 リュックはもう十四歳になる優等生で、選ばれた者しか入学できない国立魔法学校に通っている。ただ彼は家族の前ではそうでもないが、他人に対しては非常に気弱であった。そのため、学校ではしばしば他の子の身代わりとなって厳しい教師の説教を受け、夕方まで帰らない事があるので、そうなる前に姉であるエマが家へ連れ帰ることにしているのだ。

 しかしエマはもともと、弟を迎えに行くことに心から乗り気ではなかった。この提案をしたのは彼らの兄、アルテュールで、両親を亡くしてからは、歳の離れた彼が親代わりとして二人を育ててきた。そのため妹と弟に対して過保護になりがちで、「リュックが心配だから学校に迎えに行ってくれ」と頼まれることもしばしばあった。エマはそれに対して、

 「もう小さな子供じゃないんだから、リュックだって自分で何とかすればいいのよ。いちいち私が世話を焼く必要はないわ」

 と反発し、兄の頼みを拒むこともあった。

 ……が、この日エマがさんざん迷っているのには他に理由がある。実際、弟の迎えは単なる言い訳で、彼女の本当の目的は別にあったのだ。最終的に彼女は迎えに行くことを決意し、夕方に仕事を終えて魔法学校へ向かう……が、なぜか道中にある酒場の、小さくも洒落た形をした窓を懸命に覗き込み始めた。

 「……やっぱり来てないかな……」

 小さなため息をつくと、エマは丸みを帯びた瞳を翳らせた。しかしやがて気を取り直したように顔を上げ、本来の目的地である魔法学校へと足を向けようとしたその時、突然背後から声がかかった。

 「こんな所で何をしてる」

 無愛想な声に驚き、エマは口から心臓が飛び出るほど驚いた。しかしその声の主に、振り向く彼女は明るい笑顔になっていた。……彼にしてみれば脅したつもりはないのだ、それが彼にとっての普段通りであったのだから。

 「シーマ!」

 エマは今にも彼に抱き着きそうな勢いだったが、あえてそれをする前に踏み留めた。彼がそういった行動を極端に嫌うのを知っていたし……まだ自分にそんなことをする権限はないと思っているからだ。

 青年は何も言わずに酒場の扉を、無表情のまま指差した。

 「ねえ、シーマ。探し物は見つかったの?」

 シーマと呼ばれた若者は首を横に振る。細身の剣を丁寧に手入れしている様子から、彼は剣士であると推測できる。この地域では国の傭兵として戦に駆り出される事などほぼなくなったが、用心棒や地方での獣撃退など、まだまだ剣士の需要は少なくない。

 一般的な日雇い剣士の印象は、剛健で荒々しいものだ。それに対し、この若者は無駄を削ぎ落とした現代的な衣装で痩躯を包み、煉瓦色の短髪が額にかかる端正な横顔には世の喧騒に全く興味が無いかのような、どこか冷淡なものを宿している。給仕の女達がそんな彼を嬉しそうにちらちらと見ては噂をし合っているのを気にも留めず、シーマは若干の間を置いてからエマの問いに答えた。

 「まだだ。そう簡単に見つかるものじゃない……」

 シーマは『ある物』を求めて、そのような仕事をしながら旅を続けていた。ちょうど今日から二年前、その旅の途中でここマリプレーシュに立寄り……そして多少、問題はあったのだが……エマと出会い、親しくなった。以来シーマはマリプレーシュを旅の拠点としており、一段落つく度にこの酒場へ顔を見せるのである。

 「ねえ、その探し物が何か、って言うのは……」

 「……」

 「相変わらずって訳ね」

 端で観ていると怒り出したくなるような態度だが、エマは彼のこの不器用さを愛おしく感じていた。リュックの迎えという名目で迷った挙句にこの酒場に立寄ったのは、勿論このためであった。二年前に初めて出会ったこの記念日に、彼がいつもの場所に来てくれていれば……。

 エマとシーマの関係はまだ曖昧ながらも、二人の間の穏やかな雰囲気は周囲からはすっかり長く連れ添った恋人同士に見えていた。初めは喜んでいた給仕の女達の表情も、次第に悔しそうなものへ変わっていく。

 しかし、その聖域を一瞬にして踏みにじった者は、彼女たちではなかった。

 「姉さんっ!こんな所にいたんですかっ!」

 慌ただしく店に駆け込んできたのは、金茶色の髪に碧翠の瞳を持つ……エマに良く似た、まだまだあどけない少年である。エマは突然の彼の登場に現実に引き戻され、驚きつつも眉を鋭く吊り上げた。

 「リュック!」

 「リュックじゃないでしょっ!家に帰ったら兄さんが、姉さんがまだ帰ってこないって。最近物騒だから何かあったんじゃないかって心配して、こんな、制服のままで…」

 姉の前に顔を突き出してそこまでを一気に捲し立てると、リュックは傍らの剣士の姿にやっと気付いて、少し慌てて姿勢を正した。

 「あ……シーマさん、お久しぶりです。戻ってたんですか?」

 「お前らは相変わらず、うるさいな……」
 シーマは乾いた声で呟いたが、エマはますます腹を立ててしまう。

 「お前らって……私は騒いでないわ、失礼ね!」

 そんな彼女の耳に、リュックは悪戯っぽく囁いた。

 「……ちゃんと姉さんとの記念日、覚えててくれたみたいですね。これは来年あたり、期待しちゃっていいんでしょうね?」

 「なっ……何を期待するっていうのよっ!」

 エマは真っ赤になって怒りを露わにした。規律の厳しい魔法学校で幼い頃から育ってきたリュックの話し言葉は独特で、それがこのような場面では酷い嫌味に聞こえてしまうのだった。

 大人の雰囲気を提供する筈の店内で、このような幼稚なやり取りが行われていたのだが……周囲の殆どの客の関心は、彼らの会話ではなく、全く別のものに向けられていたのである。

 酒場の客が通常より多い事に、エマは今更ながら気付いた。その中心には一台のラジオがあり、周囲には人だかりができていた。月に一度取り立てられる重すぎる税金の為に、多くの市民が比較的安価な無線放送機さえ自宅に置く事ができない事実は、流通都市マリプレーシュの意外かつ暗い側面である。

 「何かあるのかしら。あんなに人が集まって」

 「姉さん、知らないんですか?今日はエクラヴワ大王様が直々に祝辞を述べられるんですよ。何でも、属国のグランフェルテ皇帝の即位十五周年記念だとか」

 優等生リュックは、すぐにこうやって自分の豊富な知識を披露したがるのだった。エマは少しむっとしたが、何が何だかわからず呆然としているよりはここで聞いておく方が良策である。

 「グランフェルテ帝国……?大王様が、あのグランフェルテの記念日にわざわざ祝辞を述べられるなんて、珍しいのね」

 このマリプレーシュを含むほぼ全世界を、エクラヴワというひとつの大国が統括しておよそ二百年が経つ。かつてはここから遥か東のグランフェルテが世界を統一した時代があったが、今ではその影も薄く、エクラヴワ大王国の強大な力に屈したその地は名ばかりの『帝国』であるに過ぎなかった。ただ美しい土地で、美しい民族が暮らすという事実は、物語の題材としては理想的であったのだろう。今でも確かに数多の逸話と化して残ってはいるが。

 それどころかグランフェルテといえば、今や大王国の一番の属国として寧ろ有名であり、無学なエマもその国の名前ばかりは知っているのだ。かつて最強であった帝国をも下し、世界を掌中に収めたエクラヴワ大王国の偉大さを表すように……学校の授業、人々の世間話、ラジオから聞こえてくる情報など、何かと言えばグランフェルテの名は奴隷国の象徴として話題に上るものだ。その扱いに若干の憐れみを感じつつも、そのような遠い異国の話は、大王国の侵略的で高圧的な悪政にも既に慣れてしまったエマたち一般市民にとって、正直なところ他人事という感覚なのである。

 「ですから今日はエクラヴワ大王様と、そのグランフェルテの皇帝が、通信で対談するんですって。最近はそんなことまでできるようになったんですねえ」

 リュックがまた、どこから仕入れたのかそんな情報を共有した。世界を混乱させるような大きな戦争もなくなり、自らに歯向かう者もいなくなったこの時代、エクラヴワ大王はかつての軍事予算を科学技術の進展に投入し始めた。これは市民たちにとっては勿論喜ばしい事で、悪政によって低下した支持を取り戻し、常に懸念されている反乱を抑える恰好の施策にもなっていた。

 「よりによってグランフェルテとはな。式典などと称して、大王は自国の権力を世界に誇示したいだけだ」

 シーマが冷ややかに呟く。最新の技術を世界に披露するために、わざわざ一番の奴隷国を相手に選んだのは、大王のお遊びなのだ。

 「大王様のお声を直接聞けるなんて、珍しい機会ですからね。みんな興味を持ちますよ」

 「誰しもが、自分達の親玉がどんな奴なのかくらいは知っておきたいからな……」

 リュックの得意げな口調にシーマも同意し、磨いていた剣を持ち上げると、手入れの終わった側の面の輝きを一通り確かめ、人々が集まるラジオの方に体を向けてから反対側を手入れし始めた。

  エマは彼の顔を見て、少しがっかりした。今日ここに戻って来た目的は、私ではなくこの放送のためだったのね、と。

 諦めて彼女自身もそちらを見れば、小太りの店主がラジオの前で何やら四苦八苦している様子であった。彼は客達の愚痴を聞く能力には長けていたが、機械の調整はどうにも苦手なようだ。痺れを切らしたひとりの客が、店主を押し退けてつまみを廻す。

 突然、初老の男性の低い声が、店内に響き渡った。

 「何だよ、もう始まっちまってるじゃねえか」

 客は舌打ちをしながらも、その放送に聞き入った。

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