【I-015】船上の取引

 飛翔船は貴族や軍人の乗り物であるため、遠い空を小さく飛ぶ姿を憧れの目で眺めたことはあった。しかし、自分たちが実際に乗るのは生まれて初めてのことだった。

 エマもリュックも、本来なら興奮してはしゃぎ回るか、慣れない浮遊感の恐怖を語り尽くして気を紛らわせたいところだ。だが、そのどちらも到底できる雰囲気ではなかった。

 ……マリプレーシュに続き、ポーレジオン王国までもが、わずかひと月もしないうちにグランフェルテ帝国の手に落ちた。その事実が、あの明朗快活な青年の人格を変えてしまったのように、レオナールの表情には暗い影が落ちていた。

 離陸から三刻ほど経っても、まだ落ち込んで甲板の隅に座り込むレオナールを見かねて、エマはまだ慣れぬ揺れに耐えながらもそっと声をかける。

 「……あの時はあまりにも遅いから、見捨てられちゃったかと思ったわ。ちゃんと来てくれたのね」

 「……ああ……でも……」

 「気にしないで。あのままじゃ私たち、本当に解放されるか分からなかったし、それだけでも収穫だと思って」

 レオナールは上目遣いにエマを見ると、少しだけ笑った。

 「……そうだよな。それだけでも、収穫だよな」

 しかし、この大型船に乗っている意味を、先ほどまで帝国軍に捕らわれていた三人はまだ十分に理解できていなかった。

 「お前、本当にエクラヴワの王子だったとはな」

 彼女の後ろから現れたシーマが呟く。リュックもおずおずと、部屋の扉から顔を出してきた。

 「……何だよ、それってもう納得済みだったんじゃねえのか?ひでえな」

 レオナールは小麦色の顔をしかめて頭を掻く。ようやく本来の彼が戻ってきたようだ。

 「分かってもらえたトコで、ちょっと話があんだ。まあ座れよ」

 四人は甲板の床に、直接座る。応接室に通すでもなくそうするところが彼らしいと、出会ったばかりにも関わらずエマ達は感じてしまった。

 「単刀直入に言うぞ。おめえらには、これからエクラヴワに来てもらいてえ」

 「来ても何も、もう向かわされてるじゃないですか……」

 リュックが年齢に似合わぬ渋い表情で突っ込む。

 「うるせえな、黙って聞けよ。実はおめえらに、協力してほしいんだ」

 レオナールは大きめの紙を床に広げ、風で飛ばないように石で固定した。紙には名前のようなものが書き連ねられている。何かの署名だろうか。

 「マリプレーシュのあと国に帰って、オレ、オヤジに動いてくれるように頼もうとしたんだ。でも忙しいとか言って会っちゃくれねえし、かといって動く気配だって見せねえ。それどころか……上のアニキに至っては、オレに余計な事すんなって脅迫までしてきやがった」

 彼は彼なりに苦労をしてきたようだ。エクラヴワ大王とレオナールのふたりの兄たちは、今さら世界の覇権を手放すことなどあり得ないと、根拠のない自信を覆えそうとしない。その間にもうふたつの国がグランフェルテ帝国に飲み込まれてしまったというのに。

 「でも肝心なのはそんな事じゃねえ。どこの国が誰ンとこのもんになるかなんていう、くだらねえ争いに市民を巻き込むのを止めさせなきゃならねえ……アイツにな」

 『アイツ』……そう、グランフェルテ七世のことだ。

 「アイツ……ついこないだまで、オヤジに帝国ん中の事を報告するために、三月に一度くらいうちへ通ってたんだ」

 「そんな事を属国の君主たちに逐一させていたのか、お前の父親は」
 シーマは珍しくも呆れ顔になる。

 「いや、グランフェルテだけだ。知ってると思うけど、ウチん家、ずっとグランフェルテを奴隷扱いして、報告どころじゃねえ酷えことばっかしてたんだ。アイツが怒るの、ムリねえけどよ……」

 レオナールは、小さく溜め息をつく。

 「……アイツ、あの頃はあんな派手じゃなくて。もっと大人しいっつうか、神秘的な感じで……」

 そんな印象の彼と語り合ったのはつい昨日のことのように感じられるのに……レオナールは以前のグランフェルテ七世の姿を思い出し、目を伏せる。

 「……城に来て時間のある時も、いつもひとりで本読んでるか、動物たちと遊んでたんだ。オレ……アイツと同い年だから仲良くなりてえし、オヤジの帝国への仕打ちがオレも嫌いだったからさ……そう思ってよく話しかけてた。向こうはオレが大王国の人間だからか、やっぱなかなか心を開いちゃくんなかったけどな」

 「大人しい?動物と?」

 エマは思わず聞き返してしまった。初めてグランフェルテ皇帝を目にしたのが巨人を斬り倒す場面で、牢に閉じ込められていた時もあれだけ尊大な態度を見せつけられていた彼女には、大人しく動物と戯れる彼の姿を想像するのは至難の業だった。

 「ああ。……でも一度、何年か前に……アイツがオヤジと顔を合わせてんの見た時、何かおかしいってピンと来たてたんだ」

 「皇帝は、大王に何か?」

 「いや。……そん時は、いつもみてえに挨拶して新しく昇格した騎士将軍てのに頭下げさせて、それで終わりだった。でも、帰りがけにアイツ、ほんの一瞬だけど……振り返ってオヤジの顔をまっすぐ見据えたんだ。それ見て、オレ……」

 レオナールは深く息を吸い込む。

 「ああ、コイツはいつか、うちのオヤジを殺すつもりなんだろうなと思った」

 「……」

 話を聞いていた三人は驚いた。……彼の話の内容よりも、情に厚そうな彼の口から、自分の父親に対するそんな台詞が淡々と発せられたことの方が意外であった。

 「レオナール……」

 「あ、話ズレちまったけど。それでオレ、オヤジがやらねえなら勝手に、正義の味方軍てのを作っちまおうと思って」

 「正義の……味方軍?」エマは笑うべきか真面目な顔をすべきか、判断に迷う。「……じゃあ、この署名は……」

 「そう、オレが国に戻ってる間に、仲間に頼んでかき集めといたんだ。この軍の目的は帝国の攻撃からか弱い市民達を守り、アイツに侵略行為を止めさせること」

 レオナールは得意げに、両手を頭の後ろで組んで三人の顔を順に見渡す。

 「……それと、ついでにいい機会だから、オヤジのくだらねえ圧政もやめさせて、世界のそれぞれの国が独立した国家として存在できるようにすんだ。……それと、最後に大事なのが」

 「こいつらにとっては兄貴の手掛かりを、俺にとっては『目的』の情報を掴める、絶好の機会になるということか」

 シーマがレオナールの言葉を引き取った。

 「おうよ、おめえの『目的』が何なんだか知らねえけどよ。ちょうどいいだろ?」

 レオナールの栗色の視線を受けると、シーマは少し考えてから、言う。

 「面白そうな取引だが、いくら何でも二つ返事で引き受けるわけにはゆかん。せっかく帝国の手を免れた命を、今度は唐突にエクラヴワ……とは言わずとも、お前に捧げろと言われているんだからな」

 「だから、とりあえずオレん家に来て、ゆっくり考えてもらおうっつってんだ」

 「オ、オレん家って……」

 リュックとエマが青ざめた表情で呟くと、レオナールは慌てて両手を顔の前で振った。

 「あ、違え違え。エクラヴワ城じゃねえよ。今、あそこに入んのはオレだって緊張すんだからさ……オレん家ってのは、城とは別にオレの住んでる家のコトだよ」

 「お城とは別に、家が……」

 エマとリュックはもはや、ただただ呆然として彼の顔を見つめていたが、シーマはここでも疑問を投げかけた。

 「……洗脳する気か」

 相変わらずの無表情を見て、レオナールは可笑しくなってひとりで手を叩き、豪快に笑い出した。

 「はっは。まあ危険な目には遭わせねえし、もてなしも十分にするからよ。美味え酒でも飲みながらゆっくり考えてくれ。ま、ゆっくりしすぎてまた帝国が暴れ出さねえうちに頼むぜ」

 船は既に、遠くに巨大な城の影の見える川沿いに差し掛かろうとしていた。

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