いつもと変わらぬ、威圧感に満ちた巨大なアーチ型の門が、自分を待ち受けている。生まれた時から幾度となくこの下をくぐり抜けてきたのに、身体に重くのしかかる不快な圧力に、未だにレオナールは慣れることができなかった。
彼は、もう一度だけ……父である大王の説得を試みようとしていた。ポーレジオンでの状況を詳しく説明すれば、あの頑迷な父も少しは考えを改めてくれるかもしれない。そう願いながら、彼はシーマたちを飛翔船から降ろすと、差し当たり城下町にある知人の宿を手配し、ひとりでエクラヴワ城へと帰還したのだ。
自分の親であろうとも、世界の頂点に君臨するエクラヴワ大王には変わりない。レオナールは普段の外出用の軽装から、王子としての正式な衣装に着替え、召使いたちに乱れた栗色の髪を丁寧に整えてもらった。もともと凛々しい顔立ちと引き締まった長身を誇る彼のこと、この正装が似合わぬ筈はない。女中たちは彼の身なりを仕上げると、いつもこの格好でいらっしゃればよいのにと、うっとりとした眼差しで王子を見つめた。
しかし大王の私室に入ろうとする彼を、近衛兵は静止する。
「申し訳ございません、レオナール殿下。誰も通すなとの厳命でございますので」
「またかよ……」
父ロドルフは、あのグランフェルテとの通信以降、不審な行動が目立つようになっていた。……以前はどっしりと構えて一日の大半を多くの臣下に囲まれ、意味のない宴に明け暮れて威張り散らしていたはずだ。たまにレオナールが訪ねても全く緊張感のない様子で、おお来たか、一緒に楽しもうと言って同じ長椅子に座らせ、裸同然の服装の女性を間に押し込んできたものだ。
しかし、マリプレーシュを帝国が制圧した後、一度レオナールが国に帰った時には、今日と同じように部屋に籠りがちになっていた。また、食事の前後に妙な呪文のようなものを口走ったり、突然笑い出したりすることもあるという。
もしかすると、奴隷だと思っていたグランフェルテの予期せぬ裏切りによる恐怖に、精神を蝕まれてしまっているのかもしれない。それを考えると、侍医も付けず父をこれ以上ひとりにさせておくことは、危険ですらあるように感じられた。 レオナールは少し焦りを覚え、近衛に詰め寄る。
「おい、実の息子でも会わせねえってのはどういうことだ。それともまた、中に新しい女でもいるってのか?」
ロドルフには五人の正妃がいる。その中でも最も大王に気に入られているのが隣国ミリエランスの元王女・リュシエンヌで、その息子がレオナールだった。
ふたりの兄とは、それぞれ母親が違う。大王と正式な契りを交わさない女の数といったら、それこそいちいち名前を覚える暇もないほどだから、レオナール自身は知らないだけでもっとたくさんの兄弟が存在しているのかもしれない。
……そのようなどうしようもない父親であっても、レオナールにはやはりロドルフを心から蔑むことなど出来なかった。今では大王は若い女に夢中になる日々を送っているが、かつてはリュシエンヌを一番の寵妃としていた事に違いはない。彼女の嫡男であるレオナールだからこそ、王子としては異質な存在でありながらも、ロドルフは三王子の中で最も心を寄せてくれるのである。
レオナールは父親のことが決して好ましく思っていないが、そのような情愛を注がれれば悪くは思えないし、彼の性分ゆえに、なおさら見捨てることができないのだった。
ところが……そのようなレオナールの事を、身内でありながら快く思わない者がいる。
「また貴様、余計な口出しをしようなどと考えているのか」
近衛兵と押し問答していると、不意に後ろから低く響く声が聞こえた。黒に近い茶色の巻き毛、エクラヴワ地方の民族特有の淡褐色の肌、そこにやや時代遅れともいえる貴族然とした衣装に身を包んだ男。九歳ほど年長の兄、大王の最初の妃が生んだ王子エドモンだった。
「アニキ……」
「言っただろう。父上の政に手を出すと、弟といえども容赦はしないとな」
王子としての職責をほとんど果たさないくせに、父大王から何かと寵愛されるこの末弟をエドモンは全く可愛がっていないどころか、嫉妬と憎悪すら抱いているようだ。その立場を逆転させんとばかりに、エドモンが常に父大王の歓心を買おうと必死なさまは、まさに哀れと言うほかない。
「マツリゴトって……どこにそんなモンがあるってんだ。閉じこもって怯えてんのが、マツリゴトってヤツか?」
「黙れ、小僧。大人ぶった口をきくな」
エドモンは苛立ちを隠さず、組んだ腕の上になった方の指で、せわしなくもう一方の腕を叩いている。……確かエドモンはグランフェルテの皇女、皇帝の姉を妃に迎える予定になっていたが、病だとか色々と理由をつけて幾度も先延ばしにされていた。事ここに至ってはそれも破談になったのだろうが……それも一因となっているのだろうか、彼は常にも増して神経を尖らせている様子だ。
「……とにかく、オヤジがいつもと違うのはアニキだって分かってんだろ?そりゃ、心配すんのは当然……」
「貴様ごときに心配されても、父上は煩わしいだけだ。さっさと貴様を甘やかす母親のもとへ帰って、乳でも飲んでいればいい」
兄は切れ長の、父に瓜ふたつの目を細めて冷笑する。それは『炎』の自信に満ちた笑みとは対極に位置し、卑屈な人間性をそのまま反映したようなものだった。グランフェルテ七世があれほど強気な性格と分かった今、改めて考えれば、姉をこんな人間に嫁がせまいと必死で阻止していたのも理解できる。
……父にへつらい、自分の頭で考えることを放棄したこの兄に、何を話しても無駄に終わるだろう。レオナールは踵を返し、大王との対面を一旦は諦めて来た方向へ戻ろうとした。……その時、向こう側からやって来る奇怪な人影が目に入る。
黒いローブを頭からすっぽりと被った、いかにも怪しげな男。背丈はかなり高く、兜でも装着した上から布を被せてあるのか、頭の一部は少し角ばった形をしている。姿を完全に覆い隠しているにもかかわらず、そこから周囲に放つ気配には言葉にできない威圧感が漂っていた。
男は圧倒されるレオナールの横を通り過ぎ、エドモンに促されるまま、父の私室へと入っていった。
(……オヤジの客?)
様子を窺おうとするレオナールに、男に続いてそこへ入ろうとしていたエドモンが、追い払うような仕草をしてきた。胸中に疑念を残しつつも、その場を立ち去ろうとすると……今度は反対側の方角から、女官の悲鳴が耳に飛び込んできた。
「きゃああ、殿下っ!!」
明らかに異常事態を示すその声を聞いても、レオナールは特に驚きもしなかった。
「……またかよ」
……ここへ来て二度目のそんな台詞を口にしたが、先程のものとは違い、呆れ果てた感情がより色濃く滲んでいた。レオナールには喫緊の要務がある。ゆえに放置すべきかとも思ったが……良心が咎めるので一応、広大な本殿の回廊を進み、悲鳴の発せられた方角へ足早に向かってみる。
予想通りの光景がそこに広がっていた。天気が良いのに窓さえ開けず、女官が入室するまで閉め切られていたであろう部屋の中に散乱する、無数の錠剤と数種の薬瓶。その間に倒れている、麦穂色の細く華奢な髪と痩身の持ち主。青白いその顔は、レオナールの二番目の兄であり、やはり大王の別の妃の息子、第二王子ミシェルのものに間違いなかった。
数人の召使いが慣れた手つきでミシェルを寝台に運び、部屋の掃除を始める間に、侍医がやってきて手際よく処置を施す。
……勿論、数年前にミシェルが初めてこの事態を引き起こした時は、いくらそれぞれが仲睦まじくない兄弟だとはいえ、レオナールも兄のエドモンも愕然とし、ミシェルの部屋に駆けつけた。九死に一生を得た彼は、その際に自分に掛けられた溢れんばかりの心配と優しさに味を占めてしまったのか……以来、あらゆる機会を捉えてこのような自殺未遂騒動を繰り返しているのである。
(……本当に死ぬ気あるんなら、とっくに死んでるはずだろ)
ミシェルは服用する薬の量や種類を、巧妙に調整しているのである。それだけの知識があるのなら医者か薬剤師にでもなって国の発展に寄与すれば良いのにと、これが起こる度にレオナールは呆れ返るのだ。
部屋の片隅で屈み泣いているひとりの女官の姿を見つけた。確か、先日ミシェルの世話係に任命されたばかりの少女だ。このような常習行為を知らぬのだから無理もない、悲鳴を上げたのも彼女だろう。
「気にすんなって。コレでいちいち泣いてたら、涙がどんだけあっても足んねえぞ」
レオナールは彼女を宥めると、侍医の手当てで意識を取り戻したらしき兄の枕元に歩み寄った。
「……いい加減にしとけよ。周りに迷惑だろ、今度は何が原因なんだよ」
ミシェルはその言葉を聞くと、血の気の少ない顔に皮肉げな笑みを浮かべた。兄エドモンのものに勝るとも劣らない、卑屈なものである。
「……迷惑だと?それもまた、良いではないか。神を欺く世の者どもに気を遣って生きる必要など、無意味も甚だしい」
何だか論点がずれているような気もしたが、何ぶん言い回しが抽象的なので、意味が良く分からないのが彼の話の特徴だ。おそらく、ミシェルもまた父に何か進言しようとして、エドモンに追い返されでもしたのだろう。
「……ま、確かにこんな世の中、イヤんなることは多いと思うけどよ。死のうなんて考えるなよな」
「ふん、お前に何が分かる。相変わらずの単純な思考回路で羨ましい限りだ」
シェルがおぼろげな意識ながらも彼を忌々しそうに睨み付けたところで、ばたばたと背後から慌ただしい足音がした。近衛たちによって引かれた扉が開ききらないうちに駆け込んできたのは、ミシェルに良く似た、かまきりのように痩せた身体を派手な紅色のドレスに包んだ女だ。
「ああ、ミシェルや……無事だったのね!」
彼女……ミシェルの母親である、ロドルフの第二王妃は、そこにいたレオナールを乱暴に押しのけるように寝台に駆け寄ると、息子をひしと抱き締める。
「また思い詰めていたのね……ごめんなさいね、気が付かなくて。それにしてもどうしたというの……まさか……」
彼女の、細かなしわの間から覗く三白眼が、未だそこに呆然として立ち尽くしていたレオナールを鋭く睨む。……根拠のない疑いをかけられて、こんなところで足止めされている暇はない。彼は不本意ながら、今度は近衛たちに閉じられようとしている扉に滑るように駆け込み、廊下へと脱出した。
……前述の通り二人の兄や、その母親たちがどんなに大王の目を引こうと努めても、ロドルフはレオナールだけを偏愛していた。表向きは傲慢で残忍で、ただ地位に安住する大王であっても……レオナールの顔を見れば、無鉄砲な行動を起こしがちなその身を常に案じ、希望を汲み取ろうとする優しい父親の顔を見せるのだ。
しかし、それはごく一部の者だけが知る特別な愛情である。父のせいで世界中の人々が苦しんでいるのを知りながら、自分だけが特権を享受するような生き方など、レオナールは望んでいない。
この第三王子はそのような性格であるから、少年の頃からお目付け係たちを悩ませた突拍子もない行動も、自由を求める国民たちの目には好意的に映った。いつの間にか民衆までもがレオナールを支持していて、次期大王は彼なのではないか、との噂まで広まっている。
……だが、それらがどうも兄たちおよびその母親の妃たちにとって、彼を疎ましく思う理由になってしまっているらしい。レオナール自身は大王の玉座など欠片も望んでいないのに、彼らはこの第三王子の立場を、時には存在そのものを抹殺しようと躍起になってくる。……既に慣れてしまったこととはいえ、血を分けた兄弟の手の者に命を狙われ、たびたび恐ろしい目に遭わされるのは、やはり気分の良いものではなかった。
(あんまりここに居ても、またおっかねえ事が起きるかもしんねえしな)
せっかく一度帰ってきたので、街へ気晴らしに行こうかとも考えた。彼は幼い頃から街の子供たちと泥まみれになって遊んでいたので、街には彼と気の合う仲間たちがいる。……それは、彼の母親の意向でもあったのだ。
レオナールの母、リュシエンヌは普段は穏やかな気質の小柄で愛くるしい女性だが、ミリエランスからエクラヴワに嫁ぐ事が決まった際、かなりの抵抗を示したらしい。それでも強引に連れてこられた苦しみからか……彼女は息子には人の気持ちをわかる優しい子になって欲しいと、彼にエクラヴワの教育者をつけるのを断固として拒み、息子の身分を隠して民間の学校で一般的な教育を受けさせた。そして大王の居城ではなく、そこから少し離れたリュシエンヌと息子のための別邸でレオナールを育てたのである。
ロドルフはリュシエンヌに心酔していたため、彼女のわがままは多少の事なら聞き入れてくれたし、可愛いその息子の為という理由えあればなおさら規制を緩めた。リュシエンヌもまた以前から、歳の離れた夫の傲慢な政治に嫌気がさしていたので、息子にこそは民衆の感情を汲み取れる度量の大きな指導者になることを願い、学校が終わった後も街の子供たちと自由に交流させた。
そのお陰でレオナールはすっかり王子らしからぬ人柄に育ってしまったが、現在でも城下町には、あの放送の後に竜を遣わせてくれたように何かにつけて助けてくれるジャンたちのような、彼にとって本当の友と呼べる者が数多くいた。
(……いや、けどそんなゆっくりしてる場合じゃねえ。そうだ、今度はジャン達にも手伝ってもらうかな)
レオナールは憂鬱な気分を切り替えようと、ふうっと短く深呼吸をした。
「おい、宿に泊まってる三人組を迎えに行って、城門前まで連れて来といてもらえねえか」
レオナールは自分の私室の前に控えていた召使いたちにそう告げると、役に立つ事のなかった衣装を着替えるために部屋の中へ入っていった。