小さな会議室の円卓上で、魔術将軍の細い指が示したのは……アロナーダとは対照的に、グランフェルテから遥か北方に位置する地域だった。世界を見下ろす『誇りある不死鳥』の首の部分に当たる場所には、フィジテールという国名が記されている。
「ここは古くからエクラヴワ領となっておりますが、雪国であることから資源も乏しく、貧しい国でございます。もともと国民は厳しい生活を強いられていましたが……十年前に現在の女王が即位してからは特に、その様相が顕著になっております」
彼女の言葉に、皇帝と技術元帥は地図に目を落としながらも静かに頷いたが、騎士兵団の副帥ルネは、さほど反応を示さずに聞き入っている。
「女王は、これまでの君主たちとは異なり、エクラヴワ大王の支配を素直に受け入れることに抵抗があるようです。常に緊張状態を保ち、軍備を増強し続けているとの情報がございますわ」
「では、随分と気が合いそうですな、陛下」サイラスがそう言って、茶目っ気たっぷりに向かい側のヴィクトールを見やる。「この女王が若く美しいかどうかはさておき、友好の手を差し伸べれば、喜んで応じてくれるのではありませんかな?」
「そう単純な話ではありませんのよ」メイリーンが呆れたように、彼の横顔を睨みつける。「エクラヴワに支配されながらも、敢えて武力行使をちらつかせるような国。当然、第三国が攻め込めばさらに態度を硬化させるでしょう。……実際、二年前にエクラヴワの指示でフィジテールに軍を向けた隣国ラントマンは、たちまち返り討ちに遭っております」
それを聞いてサイラスは、「おお、恐ろしい」と身を竦める仕草を見せた。ヴィクトールは組んでいた腕を卓上に置き、参謀役を努めるメイリーンの方へわずかに身を乗り出した。
「では、今回は同盟締結だのと平和的交渉ではなく、真正面から挑むということか」
「ええ。三大兵団、全てを率いて乗り込む必要がございます」彼女は自信に満ちた微笑みを返した。「しかし、エクラヴワが手を焼く犬を手懐ける……魅力的でございましょう?ようやく我が国の真価を発揮できるというところですわ」
すると今度はサイラスが、嬉しそうに顔を突き出してきた。
「では、私もついに本領を発揮できるということですな。……勿論、ディアーヌ様をお護りするのもとても楽しい任務ではございましたが、そればかりでは腕が鈍ってしまいますからな」
「ああ。大いに活躍してもらおう」
ヴィクトールはそう言うと、次にメイリーンの向かいに座す騎士兵団の副帥に視線を向ける。
「どうだ、ルネは。当然ながら騎士兵団には最前線で軍を統率してもらうことになるが、所感はあるか?」
この席に着いた時からほとんど動きを見せていない彼は、ようやく顔だけを動かし、その切れ長の目をヴィクトールの真紅の瞳に合わせた。
「為すべき任務を全うするのみでございます。元帥には内容を正確にお伝えしておきますので、ご安心ください」
「まあまあ、問題ありますまい」またもやサイラスが軽やかに口を挟む。「ルネ副帥は感情を表に出されるのが得意ではないが、非常に有能とお聞きする。陛下、そこまで心配なさらずとも、彼の頭の中にはこの会議の一言一句が正確に刻まれているに違いありません」
「……」
ヴィクトールは一瞬、やや納得の行かぬような表情を見せたが、気を取り直すように姿勢を正した。
「では、明日から詳細を詰めていこう。それが固まる頃にはローランも復帰して来るだろうからな。各自、よろしく頼む」
二元帥とルネ副帥は椅子から立ち上がり、それぞれ敬礼する。メイリーンが地図を丸める傍らで、ヴィクトールも会議室を後にしようと立ち上がると、ルネはローラン元帥に報告すると告げ、再び無駄のない動きで敬礼をして先に退室した。
「……あいつは少し、扱いづらいんだ」
ヴィクトールは書類をまとめているサイラスに、思わず本音を漏らした。
「何を考えているのか掴めない。……まるで機械のような男だ。アルはよくあれと腰を据えて話ができるな」
「ははは。陛下は、機械のことは苦手だと仰っていましたな」
サイラスは笑いながら書類を脇に抱え、ヴィクトールに頷いて見せる。
「もしよろしければ、今回も私にお任せください。機械のことなら得意中の得意ですからな。陛下のお考えを、うまく機械言語に翻訳して伝えておきますので」
「ああ……まあ……それに限らず、今回の作戦自体も、先ほども言ったがお前には大いに期待している。頼んだぞ」
彼はメイリーンとふたりきりで室内に残されるのを避けるかのように、サイラスが部屋を出るのに合わせて、回廊へ足を踏み出した。
「……ところで、アロナーダ滞在中は姉の世話をしてくれて助かった。様子はどうだった?」
「ええ、よくお笑いになり、楽しそうでいらっしゃいましたよ。私はそれ以上でございましたがね」
ヴィクトールが微妙な表情を浮かべるのを見て取ると、サイラスはまたはっはっはと朗らかに笑い、若き皇帝の肩を軽く叩いた。
「ですから、ご心配が過ぎるというものです。決して不適切な振る舞いなどしておりませんから。……おっと、私がそんな事を申すと、気まずくなられるのでしたな」
彼は慌てた素振りでヴィクトールの肩から手を離し、戯けた顔をして見せたが、次にしっかりと落ち着いた表情で、微笑んだ。
「いずれにせよ、このような私めをご信頼いただき任せていただけることに、この上ない喜びを感じております。また何かございましたら、ローランにばかりではなく、是非私にもお申し付けを」
「……」
ヴィクトールが返答せずに呆然としているように見えたので、サイラスは拍子抜けしたのか「おや」と呟き、不思議そうに彼を覗き込む。
「どうかなさいましたか、陛下?」
「……いや。……何故、そんなことを言うんだ?」
「えっ?……何を仰るのですか」技術将軍は困ったように笑う。「陛下をお慕い申し上げているからですよ。陛下が私を信じて下さっているようにね。……それとも、私が申し上げると軽く聞こえるということでしょうか?」
そう言って独特の気取った敬礼をすると、サイラスは技術兵団詰所の方向へ去っていった。
「……」
……サイラスにとっても、妹……マリーは唯一の大切な家族であったはずだ。それなのに……その出奔の一因となったヴィクトールに対して、なぜ以前と変わらぬ寛容な態度を示すのだろう。
(……俺は、人を疑い過ぎているのか?もっと素直に受け取るべきなんだろうか……)
……いや、やはり、怖い。
この化け物を理解し、全幅の信頼を寄せてくれる者などいる訳がない。心の奥底にそんな思いが根付いている。あのアロナーダ国王にしても、温かく温かく接してくれれば接してくれるほど……裏があるのではないか、いや、そうでなくとも突如裏切られ、見捨てられるのではないかという、底知れぬ恐怖が湧き上がってくる。
ゆえに自ずと、生来の能力を使って逐一、相手の本心を探ろうとしてしまう。しかし、人の心というものは往々にして秩序立っておらず、刻一刻と変化し、その持ち主自身にさえ背くものだ。ゆえにそうしようとすればするほど、混乱し、疲弊してしまう。
あの時もそうだった。……生涯、傍らにいてくれると揺ぎ無く信じていた彼女でさえも……。
「うっ……」
頭痛が走り、彼は頭を押さえ、俯く。
(……まだ、計画は始まったばかりだ。俺が軸を失えば、帝国は敗れる……これまでの努力を、水泡に帰してしまう)
いよいよ、三大兵団を率いて敵陣に乗り込む時が迫っている。組織をひとつに纏めるため、その頂点に立つ者は、誰よりも強くあらねばならない。
紅玉は自らを決起させるように、再び前方を見据えた。深く息を吐いたその瞬間、わざわざ避けて出てきたはずの魔術将軍が追い付いてしまったようだ。
「陛下、お伝えし忘れていた情報がありますの」
メイリーンは反応しない皇帝がまた立ち去ってしまわないうちに、急いで続きを語り出す。
「このフィジテールという地では……それはそれは、珍しい光景が見られるそうでございます。その自然の織り成す美しい現象が手に入るとなれば、出陣する軍の士気も高まることでしょう」
「そうか、そんなものがなくても高められるのが理想だがな」
そう言い終えぬうちにまたも彼は歩き出してしまうので、メイリーンは懸命に歩調を合わせる。
「……『虹の絹衣』と呼ぶのだそうです。夜、人々が寝静まった頃に、その大空に現れるらしいのですけれど……」
それを聞いて、ヴィクトールは足を止めた。そして振り返ったが……その表情は、その自然現象に興味を示したというものとは、程遠かった。
「……お前、俺を煽り立ててるのか!?」
突如として怒り出した彼に、メイリーンは驚いて二の句を告げなくなってしまう。
「去れ、除名にならないうちに。明日の会議まで一切その顔を見せるな!」
……怒鳴り散らしている彼の声に気付いたのか、回廊の奥から顔を覗かせ、慌てて駆け寄って来たのはディアーヌだ。
「ちょっと、ちょっと、ヴィクトール。何をしているの、怖がらせているじゃない」
か細い力を振り絞って弟の腕を引っ張り、制止しようとする彼女を見て、ヴィクトールは幾分か冷静さを取り戻す。大きくため息をつくと、逆の手で姉のそれを解き、彼女のやって来た方の回廊へ曲がって行ってしまった。
「……ごめんなさい、驚いてしまったでしょう?……あなたは確か、新しく魔術元帥になられた方だったわよね?」
心配そうな琥珀色の瞳で見つめられ、メイリーンは急いで敬礼した。
「ディアーヌ殿下……は、ドゥメールでございます」
「この間、一度ご挨拶に来てもらったわね」ディアーヌは弟の失態を取り繕うかのように、優しく微笑む。「……あれじゃあ、怖くて仕事にならないわよね。どうか気にしないでちょうだい」
「いえ……わたくしが不適切なことを申し上げましたがゆえに、お気分を害してしまったようで……」
どちらかというと先ほどの怒号よりも、突然の可憐な姫君の出現にメイリーンが困惑しながら言うと、そのようなことはよくあるのだとばかりにディアーヌは小首を傾げる。
「感情の起伏が激しすぎるのよね、彼は。悪い子ではないんだけど……あの通り事情が複雑だし、ああ見えて意外と繊細だから、心が不安定になりやすいみたいなの」
それを受けて、今度はメイリーンが柔らかく笑みを浮かべた。
「よく分かりますわ。アロナーダでも国王に温かくお迎えいただいて、何度も感極まっていらっしゃいましたもの」
そうだったのとディアーヌは言い、また愛らしく笑った。
「まあ、だから気にしないでちょうだいね。……もし、お時間があるなら少しお茶でもいかが?」
その台詞はよく聞く貴族の社交辞令であるが、この善良な姫君は本当に自分と話したいと思っているのかもしれない。メイリーンは再び穏やかに笑み、礼を述べた。
「……ありがとうございます。ですが会議の内容を詰めねばなりませんし、そのようなことをしていたらまた叱責を受けてしまいますので。……ただ、ひとつディアーヌ殿下にお伺いしたいこともございまして……」
「まあ、何かしら?」
「殿下の護衛を務めていたという女性のことです。今のわたくしと同じように軍人としての地位も高い方だったとお聞きしているので、皇帝陛下とお接しになられる場面も多々あったことでしょう。先ほどのような事態が生じた際、どのように対応されていたのかと…」
それを聞いてディアーヌは少し不思議そうな顔はしたものの、特に疑念を抱く様子もなく、ああ、マリーの事ねと呟いた。
「……彼女はとても気が強かったのよ。私と同い年だから、ヴィクトールより年上だったし……むしろ、逆に言い負かしてしまっていたかしら」
ディアーヌは彼女のそんな姿を思い出して懐かしそうに微笑み、少し寂しげに息をついた。
「……すぐ戻ってきてくれるといいのだけれど。彼に臆することなく強く言える人なんて、貴重だものね」
ディアーヌは「頑張ってね」とメイリーンを励ますと、優雅に身を翻し、先ほどヴィクトールが消えていった角へ戻って行った。
「……」
メイリーンは額に手を当てて敬礼の型を取りながら、しばしその後ろ姿を見送っていたが……やがてその手を顎に当てて思案しながら、振り返って魔術兵団の詰所にある自室を目指した。