波立ってしまった気分を抑え込み、咄嗟に切り替えるのが得意でないということは、自分でも分かっている。しかしカリムス王は自身も多忙な中、この急な対戦が入る前から饗応の用意をしてくれているのだから、それを無下にするわけにはいかない。
ヴィクトールは何度も大きく息をついては苛立ちを外へ追い出そうと試みていたので、湯浴みや着替えを手伝ってくれている帝国騎士はおろか、アロナーダの使者までもを、随分と怯えさせてしまったようだ。
……これではメイリーンの言う通り、折角の結果をふいにしかねない。理屈では分かっているのに……あの栗色の瞳の浅黒い顔が脳裏をよぎる度、鎮めようと努めている感情がまた沸き立ってしまう。
それゆえに食堂へ通された時も、ヴィクトールはあまり適切な表情をしていなかったと思われる。アルベールがずっと心配そうに眉を寄せながら、しかし何かを言えば余計に彼の機嫌を損ねてしまうかもしれないと、我慢している様子が見て取れた。
しかしカリムス王本人はそれに気付いていないのか、ようやく晩餐を振る舞えたことが実に嬉しいといった様子で、ヴィクトールに語りかける。
「いやはや、先ほどの様子を応接間から拝見させていただいたのですがな。実に美しい、まるで舞の舞台を見せていただいたかのような戦いぶりでしたな。思わず、アドリーヌの演舞を思い出してしまいましたぞ……」
感動の言葉を掛けてくれる王に、ヴィクトールは何とか笑みを作って返答の代わりとした。……もしかすると引き攣っているかもしれない、と自覚しながら。
「……ところで、最後のあれは一体何だったのですかな?もしかすると、西のシュバリエ地方に伝わる『魔法剣』というものでございますかな?」
「……ええ、まあ……」
はっはっは、と国王は笑い、どうあれ帰ってくれたようで何よりじゃと二、三度頷いた。そして食の進んでいないヴィクトールの顔を、少し覗き込む。……口に合っていないと思われてはいけないと感じ、彼は慌てて食器を動かした。
「……グランフェルテ七世陛下、お名前でお呼びしても差し支えないかの?」
「……え?……はい、勿論でございます」
ヴィクトールは自分より半世紀も長く生きているこの老王に敬意を込め、頷いた。
「では、ヴィクトール殿。……あまり、心を悩ませる必要はございませんぞ」
「……」
「若き日には、誰でも少しは暴走することもあるものじゃ。儂も随分と失敗を重ねたものよ」
王はまた豪快に笑うと、続いて温かな表情になり、ヴィクトールによく聞こえるように、また顔をそちら側に寄せた。
「……特に、其方は幾重にも複雑な宿命を背負って生まれ、他人には容易に理解されぬことも多かろう。儂ならとうに、挫折しておったかもしれんが……それでも前を向いて進もうとするその姿勢に、儂は深く感銘を受けておる」
「……」
ヴィクトールはまたも、暫し手を止めてしまう。
「……ご厚意に感謝いたします、カリムス様。……確かに、なかなか……理解はされませんが……」
彼は今までのものとは異なる感情の波を飲み込み、カリムスへ視線を返して、微かに笑む。
「……このように生まれついてしまったからには、嘆いても仕方がありません。ゆえに、やるしかないのです」
「ふふふ。そうか、そうか」
カリムスはまたも優しげに微笑み、満足げに葡萄酒をひと口飲んだ。
「……まあ、無理は禁物じゃ。何かあればすぐこのカリムスを頼っていただきたい。……そうじゃ、次は其方の姉君も一緒に、ここへお連れいただけんかのう」
是非に、とヴィクトールは答え、減退してしまった食欲を押し隠すように努めながら食事を進めた。それを終えると、やや酔いの回ったカリムスは、まだ浮かない表情を見せがちな彼を励ますかのように、温かく抱擁してくれた。
しかし、そうされればされるほど……疑念も増大させてしまう自分に、ヴィクトールは嫌悪感を覚えていた。二元帥と言葉を交わすこともなく部屋の前まで来ると、アルベールは彼の心中を察したかのように、ただ「よく休め」とだけ言って彼の肩を軽く叩き、近くに用意された自室へと去って行った。一方、メイリーンは僅かに憂慮の色を浮かべてヴィクトールの顔を見つめ、部屋に入ろうとする彼を引き留めた。
「……陛下。少し、お話できませんこと?」
「……」
ヴィクトールは少し疲れたように、ひとつ息をつく。
「……今、そういう気分じゃない。またにしてくれないか」
「私……」それでも彼女は、何かを言いたげにその場に留まる。「貴方の心を十分に理解しようとしないまま、あの就任の日……あんな無礼を働いてしまったの。でも……」
メイリーンは伏せていた長い睫毛の下から漆黒の瞳を上げ、真紅を見つめる。
「私は、本当にその瞳が綺麗だと思ったから……」
「あのな、ドゥメール」ヴィクトールは辟易とした様子で、整った眉を顰め、彼女の言葉を遮った。「……俺に近付こうとする女は、皆一様にそう言うんだ。もう聞き飽きたな」
「……」
「ただ、三大兵団を率いる元帥にそれをされると、少し厄介だと感じるだけだ。……取り入ろうとするなら、仕事で成果を上げる方が賢明だぞ」
彼はメイリーンの顔から視線を逸らすと、衛兵が扉を閉めようとするのも待たず、自ら取っ手を引いて部屋に入ってしまった。
「……」
そこにしばし呆然と佇んでいたメイリーンだったが……仕方なく、アルベールの部屋の隣に用意された自室へと足を向ける。
(……なら、元帥として結果を残せば、認めてくださるのでしょ)
次はこれほど、生易しくない現場へ。自らの実力を存分に発揮し、見せつけることのできる地を、彼女は心中に思い描いていた。
一方あの後、市長官邸に急いで逃げ帰ってきたレオナールたちは、食事を取ることさえ忘れ、広間の至るところに各々座ってしばし放心していた。
「……レオ、あれ……何だったんだよ。最後の……」
ジャンが未だに声を震わせながら、呟くように問う。……まだ命があることが夢なのか現実なのか判然としないレオナールは、それに答える余裕もなく、部屋の角の観葉植物の傍でぐったりと項垂れているだけだ。
「『魔法剣』か…?」窓際に凭れ掛かっていたシーマが、顎に手を当てて考える。「……シュバリエの騎士だけが使えるという技を、グランフェルテの皇帝も扱うというのか?だが、呪文を唱えている様子がなかった……」
「違えよ、そんなんじゃねえ……」
レオナールはようやく顔を上げると、ゆっくりと乱れた頭を振った。
「普通の攻撃だって、何かおかしかった。アイツ、変わってんのは見た目だけじゃねえのかも……」
とにかく、レオナールが全力を尽くしても到底太刀打ちできる相手ではないということは、明白となった。ここで諦めて、グランフェルテの思い通りに世界が動かされるのを傍観するしかないのか……いや。
「……どのみち、今ここにいたら危ねえ。すぐ目と鼻の先にまだアイツがいるんだしな……」
レオナールは「いてて」と呟きながらもゆっくりと立ち上がり、スツールに大柄な身体を窮屈そうに収めているイメルダに言う。
「イメルダ、オレらもう行くわ。色々チカラ貸してくれてありがとうな」
「えーっ」彼女は意外そうに驚き、それから悲しそうに円らな瞳を垂らした。「もうお別れなの~?ご飯くらい食べていかないの?」
「ああ、すげえ楽しみだったから残念だけどな。おめえももうこんな時勢に無暗にひとり旅すんなよ、彼氏いんだろ?」
「そうだよ、カレにも会わせたかったのに……」
イメルダはせめて明日まではいられないかと一同を引き留めた。だがレオナールは首を横に振り、ジャンとシーマも荷物を取って出発の準備を始める。
「……わかったよ。絶対、また来てよねッ」
飛び跳ねながらイメルダに両肩を勢いよく叩かれると、もともとの身体の痛みに響いてとても苦痛を覚えたが……レオナールは親指を立て、笑顔を作って扉を出ていった。