【I-005】定刻来たる

 店内の客たちは、血の気を失ったかのように顔を青くし、またある者は半信半疑の様子で、慌てふためきながら一斉に散っていった。店主までもが店を放り出して裏の自宅へ退避したが……エマとリュックの姉弟は衝撃のあまり、その場から動けなくなるほどの衝撃を受けていた。

 「……戦争が、始まるっていうの……!?」

 エマは自らの口から出た単語に現実を追い付かせることができず、ただ心を揺り動かすばかりだった。リュックもまた、放送を聞いていた時の姿勢のまま簡素な木の椅子に座って呆然としていた。

 姉弟が生まれてからこれまでの時代も、決して平穏ではなかった。大王国やマリプレーシュ侯爵による悪政のため治安は不安定で、彼らは幼くして両親を暴動で亡くすほどであったが……国と国とが直接衝突するような大規模な戦争は、未だ経験した事がなかったのだ。

 彼らの脇に残ったまま、しばらく険しい表情で考え込んでいたシーマが、低い声で呟いた。

 「さすがは『炎』とやらか……前代の皇帝たちとは一線を画しているようだな」

 「『炎』……?」
 唐突な言葉に、エマは戸惑った。

 「情報に明るい人間しか知らんことだが、あくまで噂の範疇だと思っていた。……前代のグランフェルテ女帝は、二十年前に国を追放されている。『魔族』と仲良くなって、その子供を身籠ったためにな」

 「ま、『魔族』……!?」

 この言葉は、エマも聞いた事があった。何処かの地に隠れ住むという珍しい種族。非人間的な外見と、人を惑わす特異な能力を持つという。昔は普遍的に存在していたそうだが、その力はリュックたちが学ぶ”魔法”の域を超え、恐れをなした人々によって迫害され、虐殺されていった。ゆえにその数はごく少数にまで減ってしまっている。エマやリュックは勿論、実際に彼らを見た事がなかったが、そういった種族が存在するという話を新聞や物語などで読む事がある。

 「その、子供というのが……」

 「現在のグランフェルテ七世皇帝だ。『炎』という異名は、今の放送で大王が幾度か示していたように、その特徴的な姿に由来しているらしい。が……あの様子からすると、気質自体もそれを表しているかもしれんな。情報通の間では、奴はエクラヴワに従順を装ってはいるが、いずれ反旗を翻すだろうと囁かれていた」

 エマたちも確かに大王が端々に散りばめた、グランフェルテ皇帝の姿について言及する様子が少しばかり気になってはいたが、こんな事態になった以上、それどころではなくなったのだ。ともかくもそこまで説明したシーマは立ち上がった。

 「お前たちは家で大人しくしていろ。おそらく街には攻撃してこないはずだ」

 「えっ、あなたは?」

 「俺は少し事情を探りに行く。……カプール侯の城へ向かう」

 驚いたエマは、シーマを止めようとしたのだが……彼の足取りは速かった。その背を追って酒場を出てたが、混乱し騒ぎ立てている人々の間に紛れてしまうと、歩き慣れた街であるとはいえ彼がどちらの方向へ行ってしまったのか、完全に分からなくなってしまった。

 不安に駆られながらも、仕方なくエマとリュックは帰路に就くしかなかった。

 そして……先の放送を別の場所から聞いていたあるひとりの若者も、その内容に同じく衝撃を受けていた。しかし、マリプレーシュの酒場の聴衆が受けたものとは、また別の種の感情が伴っていた。

 「マジかよ……アイツ、どうして突然あんな……」

 暫し呆然としていた彼であったが、はっと何かを思い出したように、栗色の瞳を上げて豪華な長椅子から立ち上がる。そして金のあしらわれた放送機の前から、廊下に繋がる扉へ向かって駆け出した。

 「若様!どうされたのです、今日の放送は絶対に聴き逃がせないと仰られていたのに……」

 扉の向こうに待機していた衛兵が慌てて若者の行く手を阻もうとする。しかし、彼はその高貴な肩書きにそぐわない荒々しい言葉遣いで、それを振り切った。

 「放送はもう終わったんだよ!それどころじゃねえ、ちょっと出かけてくる!」

 意外な事に衛兵は、強引な若君をそれ以上止めようとせず、少し呆れた表情をしただけだった。日頃からこの部屋を守っている彼は、この若君が先程のように無理に押し切って部屋を飛び出て行くのを毎日のように見ているので、試みが無駄であるのをよく知っている。若君がその身分を所持している為に、一応は止めている振りをしているだけなのだ。

 若君は知り尽くした構造の邸を、一直線に出口目掛けて駆け抜ける。途中に何人も配置されている衛兵も先の部屋を守っていた者と同じ経験をしているため、彼が外へ飛び出してゆこうとしているのを見てもあまり気に留めない。若君の方も彼らの事は特に気にしないのだが……中庭の前を横切りかけ、白いベンチに座っていた人物がこちらに視線を向けているのに気付くと、彼は急停止をして数歩だけ後ろ向きのまま戻った。

 「悪りぃ、今回だけはどうしても……」

 手を合わせる彼に優しく微笑むのは、落ち着いた薄紅のドレスを着た、四十歳前後の女性だった。小柄で、年齢に拘わらず可愛らしいというような印象を受ける彼女はその瞳を細めると、無謀な行動を取る彼に対して静かに頷いた。

 「すぐに戻るから!」

 あまり深く考えずに若君はそう言うと、そのまま再度邸の玄関に向かって、突き走って行った。そこにも衛兵が配置されているのだが、彼の姿を認めると黙って重厚な扉を開けた。やっと建物の外へ転がり出ると、また風を切り、瞳よりやや明るい色の、彼の気質を象徴するような張りのある短い髪が乱れるのも気にせずに、広い庭園を走り抜ける。

 ようやく植え込みを飛び越え、街の裏手に繋がる林へ出ると、彼には馴染み深い顔ぶれが待っていた。

 「レオ!やっぱり出て来たか」

 数人の若者たちのリーダーらしき青年が、彼に笑いかける。“若君”という肩書とは一見無縁そうに見えるやや派手な軽装の、逞しい体つきの若者だ。

 「ジャン、オレを待ってたのか?」

 邸の若君……レオという愛称で呼ばれた彼は驚いた。ジャンたち街に住む仲間が、今この時にそこにいると思わなかったからだ。ジャンの方は彼が邸から出てくる時はいつもここからだと分かっているので、あの放送を町の酒場で聞いた後すぐに、ここへ駆けつけたのだ。

 「お前のことだから、行動に出ない訳がねえと思ってたんだ」豪快に笑うジャンの後ろには巨大な動物がいた。「竜も用意しておいたぜ」

 小柄な竜使いの少年がジャンの言葉を受けて、青い鱗を光らせる竜の手綱を引き、レオと呼ばれる若者の方へ差し出した。

 「すまねえ、おめえらにはいつも世話ンなってばっかりだ。近いうちウマいもん奢るからな!」

 彼は慣れた調子で勢いよく、革の鞍が取り付けられた竜の背に飛び乗る。

 「その台詞は何度聞いたか覚えてねえぞ。一体いつになったらウマいもん食えるんだよ!……おっと、忘れもん!」

 ジャンは彼に長いものを投げ渡した。それは重厚な装飾と豪華な紋章の施された鞘に入った、美しい曲線の輪郭を描く剣だった。

 「サンキュ!……こないだ、忘れて邸に帰っちまったんだっけな」

 「それ預ってるのはかなりの重圧だったぜ。そんな大事なもん忘れるのお前くらいだろ……さあ、早く行ってこい!」

 ジャンが手を振ると同時に、青い竜は甲高い声で鳴くと翼を広げ、地面を蹴り上げた。竜に乗った若者はジャンたち仲間に力強い笑顔で手を振ると、目的地の方向を見定めた。

 「マリプレーシュまで、丁度丸一日くれえか……途中で一度竜を休ませたら……間に合うか…?」

 若者は心配そうに表情をしかめたが、とにかく一刻も早くその地へ降り立たんと竜の尻を叩いた。

  家の異変に、エマとリュックの姉弟は帰宅してすぐに気付いた。兄のアルテュールが居ないのである。

 「兄さんが……」

 今にも泣きそうな顔で姉を見つめるリュックに、エマは優しく声を掛けた。

 「これからしばらく家に籠らなきゃいけないから、きっと買い出しに行ったのよ。帰るのを待ちましょ」

 アルテュールは足が悪く、普段は車椅子の使っていた。十二年ほど前に街の中心で起こった、大王国の支配に不満を持つ過激派による抗議活動……それがアルテュールから奪ったものは、両親だけではなかった。そんな状態の彼が、そう遠くに行けるはずはない。そう言う意味合いを込めて、エマは弟を説得したのだが……それは、彼女自身に言い聞かせたものだったのかもしれない。

 (シーマだって無茶なことは判断できるはず。だから何も心配することはないわ……)

 自らを落ち着かせるために、彼女は奥の部屋で両親の写真に手を合わせ祈った後、すぐに帰って来るであろう兄のために、台所へ戻って弟と一緒に夕食の準備を始めた。

 しかし、姉弟にとって……いや、すべての市民にとっても眠れぬ夜が明けても、アルテュールの姿はまだ見えなかった。エマは明け方になってやっと寝息をたて始めた弟を起こさぬように、そっと玄関を出た。ちょうど隣家の婦人が新聞を郵便受けから取り出して、新しい情報がないかと血眼になって探しているところだったので、アルテュールを見ていないか尋ねてみた。

 「知らなかったの?あの後、放送の後すぐにね、街の若いのだけで城へ向かう抗議活動隊が結成されたのよ。アルテュールもそれに加わって行ったんじゃないかね?」

 「お城……!?」
 驚きを隠せないエマに、婦人は哀れそうな表情を浮かべながら続ける。

 「ええ、みんな領主のカプール様がしっかりしていないからマリプレーシュが危ないと思ってるのよ。ほら、大きな声では言えないけど……普段遊んでばっかりいるお方でしょ、こんな時くらいちゃんと市民を守れって。アルテュールも正義感が強いからねえ、自分も何か行動を起こさなくちゃって思ったのね。せめてあんた達に何か言ってから行きゃいいのに……」

 彼女の長い話を、最後まで聞く余裕は今のエマにはなかった。夕刻にはマリプレーシュ城が攻撃されるかもしれないというのに、アルテュールは車椅子でそこへ向かったのだ。

 エマの留守中に目を覚まし、彼女までもがと絶望しかけていたリュックは、慌てて玄関から駆け込んできた姉の姿にほっと胸を撫で下ろすと同時に……その表情からおおよその状況を把握する事ができた。姉弟は身形にもほとんど気を使わないうちに、すぐに家を出て城へと急いだ。

 ……もちろん、命を張ってカプールに抗議する気などさらさらない。

 ただ、彼等の親代わりとなって育ててくれた、年の離れた兄を助けたいという一心が……姉弟を動かしていたのだ。

 グランフェルテ皇帝の宣告した攻撃開始時間直前となっても、カプール候は未だ何の行動も示さなかった。民から『税金屋敷』と密かに呼ばれるマリプレーシュ城の前には、多数の抗議隊や荒くれ者が押し掛け、大混乱となっていた。

 「カプールを出せ!俺たちを守れ!!」

 「どうして大王国は、帝国の要求を飲まない!?剣を渡すだけじゃないかっ!」

 「世界最強の大王国なら、グランフェルテなんかさっさと抑え込んぢまえばいいのに、どうしてやらねえんだ!!」

 城門を守る兵士たちは普段なら反逆する者を軽く取り押さえてしまうはずだが、この数では手に負えない。このような状況では、真か嘘かも判らぬグランフェルテの攻撃などに備える余裕もなかった。

 もうどうせ命を捨てるのだからとやぶれかぶれになった市民たちは、普段の鬱憤を晴らすかのように暴れ狂っている。兵士たちはこのひと晩、交代して寝る間もなく総当たりで制圧を試みていた。……悪賢い兵は、放送の直後にこの危険な城から逃亡していたので、侯爵に忠実な残り少ない兵たちが頑張らざるを得ないことも、この状態を招く原因であった。

 そんな正門の大騒ぎを他所に……城をぐるりと囲んだ水路の、茂みに覆われた裏手の細い橋……市民には知られていない秘密の出口には、馬車が一台控えている。……間もなく、丸くて小さな体を絢爛な衣装に詰め込んだ、実に腹黒そうに眉を釣り上がらせた老人が、兵に促され城からこっそりと出てきた。厳重に隠されて来たこの門が、今こそ役立つ時であると思惑した彼の逃亡劇は、すんなりと成功する……はずであった。

 「卑怯だな。裏口から逃げるとは」

 老人……マリプレーシュ候カプールは、突如響いたその声にその丸い体を竦み上がらせた。声の主にしてみれば別に脅したつもりはなく、彼の数少ない女友達に話し掛けるのと同じ調子で声を掛けただけなのだ。

 「さすがは悪名高い、マリプレーシュ侯爵様だな」

 この出口脇の柱の装飾の上に乗っていたシーマは、昨日あの場で磨き上げたばかりの愛剣を抜くと、慌てて構える衛兵ふたりに飛び掛かっていとも簡単にその柄で蹴散らし、カプールに詰め寄った。

 「俺は抗議隊でも正義の味方でもないが、あの『神器』に興味がある。貴様、帝国の標的にされたのには何か理由があるだろう?」

 「しっ、知る訳ないじゃろ!」カプールは顔を真っ赤に染めて、怒鳴り散らした。「そんな物の事など知らんっ!!あれはエクラヴワ大王様のものだ、わしには関係ないっ!!」

 大声で捲し立てなければ良かったものを。

 「いたぞ、カプールだ!!」

 裏まで回り始めていた抗議隊のひとりに、侯爵はとうとう見つけられてしまった。

 「ど……どけっ!!」

 カプールはシーマを押し退け、老人とは思えぬ勢いでくるりと方向を変え、馬車とは別の方向へ逃げ出そうとして茂みを掻き分けた。……が、それはまたも失敗に終わった。

 目の前に並んだのは、抗議の若者たちではない。

 鍛え上げられた肉体を、この辺りではあまり見た事のない、白を基調とした洗練された戦闘服に包んだ男達は……囲まれた方が尋ねる前にその立場を明かした。

 「マリプレーシュ候カプールだな。我々は……グランフェルテ帝国の者だ」

 カプールはもはや抵抗は無駄だと悟ったのか、急に大人しくなった。その数人ほどの異国の兵のひとりがちらと、これから老人が乗って逃げるために用意されていた馬車、周囲で伸びている衛兵たちを見遣って呟く。

 「一国の主が、見え透いた子供じみたことを……どうして己の主君を信じて待てぬのだ?それともエクラヴワ大王は、所詮信頼に足りぬ男か」

 帝国兵たちの間からどっと笑いが巻き起こる。つい一昨日まで、ほんの小国……それも大王国の一番の犬と軽んじられていた国の兵士たちの、想像に反するほどの悠然さに、咄嗟に再び柱の陰に隠れたシーマは迂闊にも圧倒されていた。しかしふと冷静に、彼らがなぜ突然ここに現れたのかを考えた時に……重大な事に気が付いた。

 「くっ、時間か…!」

 城の塔に掲げられた時計の針が、定刻を示す。

 建物の中心で、爆音が轟いた。

 正門前で熱を帯びていた抗議隊の若者たちの顔色が、みるみるうちに青ざめる。

 「じ……時間だ……」

 「帝国の攻撃だ……本当に、やりやがった!!」

 若者たちの多くは今まであの宣言のことを、通信という非現実の世界の、どこともよく知らぬ者の妄言とどこか軽んじていたのだ。ゆえに覚悟を決めて来たにも拘わらず、幻が現実になってしまった事に怯えて城門から一斉に散り散りになった。しかし、本当に勇気ある一部の青年たちはなおも残り、抗議の矛先をグランフェルテ帝国兵へと変えた。

 「おいっ!てめえら……突然やって来やがって!!一体、どういうつもりだっ!?」

 対峙する帝国兵たちは、各々の背や腰に携えられた武器さえも抜かず、冷淡とも言える落ち着きぶりを崩さなかった。……攻撃が始まって、輪をかけて混乱する状況に追い立てられるマリプレーシュ城の兵士たちとは、正反対の様相を見せるように。

 「我々は基本的に一般市民には手を下さない。ただし行き過ぎた行動を取る場合は、適切に対処せざるを得ない。……分かるな?」

 その余裕は自分達の主である皇帝への、絶対的な信頼から来るものなのか。対抗しようとする若者たちはその気迫に押され、歯を食いしばったまま彼らの前に一歩を踏み出す勇気さえ持てずに、ある程度の空間を保ったままの状態で、蛇に睨まれた蛙のようになってしまっていた。

 間もなく、頭上から低い機械音が響き始めた。一斉に首を上げた隊の若者達が目にしたのは、大きな空飛ぶ船……飛翔船だった。だがそれは彼らが時折目にするエクラヴワ大王国の、獅子と竜の対峙する紋章の入った、重厚な臙脂色の船とは異なる。戦をしに来たという状況にはやや似つかわしくない、幻想的で華麗な純白の船だ。

 帝国兵のひとりが、それを見上げて呟いた。

 「皇帝陛下が、いらしたようだな……」

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